幼稚園児パパとはどんな人たちなのか

先日幼稚園の遠足に行ってきましてん。里山だかビオトープだか言うところまで道路を歩くというものでしたが、幼稚園のイベントには「父親参加」を指定するものがよくあり、今回もそういうものでした。てなわけで自然と幼稚園児父がわんさか集まったという次第。9割が父親という中で、自分の子と同じクラスの父親はもうそろそろ顔と名前が一致するぐらいにはなっていますので、色々なところで父親も幼稚園に参加しているということ。
幼稚園児と父親が列を成して整然、とまでは言えない迄も、とにかく歩く。朝8時45分出発で10時15分里山着。その後里山で遊んだあと、12時に昼食。という流れ。そういう中で男親がほとんどの中である程度の秩序を保って進んでいくというのがなかなか初めての体験だったなあ、と。
昼食時には何となく子の友人関係に応じて、まあ親同士も見知った感じだけれどもゴザ(じゃないなマットっていうか敷物)引いて弁当広げて皆で食べて、と。周りはおっさんなんだけど、何にもイレギュラーなことが起こっていない。イクメンなんて全然いない(僕も含めて、だな)のに、普通に進んでいくのが不思議な感じでした。
思うに。
ある程度父親というものには役割などがあって、各家庭で存在しているものなんだな、と。
子育てからのディスられっぷりからして、父親ってものは存在していないかと思っていましたが。
過大評価するものではないけれども、決して過小評価するものでもない。「ステレオタイプな父親」ってものも、家庭内で一定の役割を果たしているのだろうなあというかそういうことを思っていたわけではありませんが、そんな感じです。

ワーキングマザーのカタキ

インターネットの中をうろうろしていて、ワーキングマザー的なものに親和性があり、少しばかり垣間見ることになった気がします。
そんな私は育休を半年ほど取ったものの、マスオさん的な親同居を選んだために、実際のところはワーキングマザー的なものから離れていったと感じています。私の母はフルタイムで働いていましたが、父方の祖父母が私たちと同居していましたので、僕はその母の立場に近い気がしています。で、これってワーキングマザーではない、という気も。
育休から職場に復帰した時にいきなり繁忙期迫る税務課(確定申告の人員不足のため)で、しばらくしたら夜10時11時までの残業が始まり、また、義実家で義両親とギクシャクするとか(家に帰ることにちょっとした負荷がある)、そうは言っても義両親が子どもを見てくれたりという環境の中で、残業ができないとは言えないまま繁忙期を乗り切り、また通常期もミチミチ仕事やったあとで繁忙期が来るというのを何度か乗り切ったあとで今年度から都市建設畑にいるわけですが。
今年4月の異動で、僕と同年代の女性も同じ係に異動してきて、現在同じ仕事をやっている。異動、というか、4月に育休から復帰してきたというわけだ。たまたまうちの子と同じぐらいの月齢のセットの姉妹がいる。うちの2歳児が4月には1歳だったわけで、その女性の下の子が年度当初に保育園を確保できたというわけだ。もちろん上の子は同じ保育園にいる。
保育園に預ける時間の関係で、その女性はだいたい定時で上がっていく。私的には保育園の送り迎えをするというのが狭義のワーキングマザー的なイメージがある。さて、もちろん私も定時帰宅を目指していたわけだけれども、男性労働者の悪弊か、ズルズルと仕事をこなすために残業をしていくことになっていく。
今まで培ってきた仕事力のようなものを使って、仕事の時短に励んでいるつもりだが、今年から異動してきた部署でもあり、仕事の勘所も掴めていない。また、仕事自体も毎年あるものではなく、多分この仕事が片付いたら、もう同じ仕事はうちの市ではしないだろうというような仕事。殿戦、退却戦。
こういう中でもがく。一応自分の中でも子育てのタイムリミット的なものがあって、夜8時ぐらいまでに帰宅して何らかのことをやらないと、子が寝なかったり翌日に支障が出たりするので、そこで仕事を切って帰宅するのだが、逆に毎日それぐらいまでは残業をやらないと仕事が零れ落ちてしまうという恐怖がある。子育て、と言えば夜に上の子が「おしっこ」と言えば起きるのは自分だし、下の子が「ミルク」と言えば起きるのは自分。妻もイッパイイッパイの中で、何となくできた暗黙の行動様式だ。夜中に何度か起きることに完全に慣れてはきたが、睡眠の面で不安がある日もある。
仕事の時短、と言っても難しいこともある。
もしうちの子が幼稚園ではなく保育園に行っていたなら(ということは義父母・実父母と同居していないということをも示す)、僕も何もかも捨てて定時に帰っていたかも知れない。残業をするということはある意味では幸せなことだ。仕事が零れ落ちてしまう不安を軽減できるし、幸いなことに今の職場では残業代も出る。
反面、どうしても抱えきれない仕事を背負い込むことにもなる。仕事のショックアブソーバーは僕の残業時間しかないのだ。ここでやらなければ所与の業務量が定時でできる業務量を上回っていた場合、ただただ締め切りが破られ、仕事が破れてしまうということが生じうる。
スーパーワーキングマザーは、「ダラダラ残業やるやつよりも成果を出した」、というようなことになるのでしょう。ただ、私が定時で上がるとしても、現状の残業含めた業務量を定時内にこなせる自信はありません。考えられる方法としては、相対的に大事ではないものをどんどん切り捨てる。つまりは色々な人に怒られながら、業務を捨てていく、ということぐらいだ。色々な人というのは対市民であったり、市民に怒られることを嫌がる同じ職場の人、ということだが、自己判断で仕事を捨てて、怒られるしかない、というか、現状でもまだ怒られていないが、怒られるまでは放置しておこうという形にしてある仕事が既にいくつかある。
ワーキングマザーは存分に残業ができる同僚や配偶者がうらやましいかもしれないが、その状況にある私はそれなりに悩んでいる。家庭内における賃労働の価値、それも残業での完全なプラス、ってのは割と価値が高いって考えもある。ただ、子育てへの関与が遅れると夜寝ないことや家族の疲弊など、一日では問題とならないが蓄積するとかなり痛い状況にもなる。私だって、「なるべく(なるべくってのが悪いんだろうが)」残業は避けたいんだけれども…。
なんとなく我々残業族は、ワーキングマザーにとって仮想敵みたいなものだと感じているが、我々労働者は本来手を組むべきものだろうと思うね。職場でもそうなんだけれども、多分、まずは夫婦から。

運動会と、僕らの空が高いこと

本日、雨予報がまさかの運動会日和。っていうか日差し、痛すぎ!帽子がなければ死ぬような天気で幼稚園の運動会が執り行われました。
うちはどちらの親も市内(しかも片方は同居)という保育園無理環境なんですが、そんなわけで今日は夫婦のどちらの親も来て、大人の手は余るほどでした。上の子3歳が運動会に出場しますが、下の子2歳は主に義両親に見てもらって僕はビデオ担当でした。
去年は2歳だった上の子が「ひよこ組」として特別に参加(プレ何とか言う一連の流れ)させてもらった時は本当にアウェーと言ってもいいぐらいの気持ちだったものが、本日は本当にホームだという思いで参加をさせてもらえました。4月からの半年で、いくつかの行事参加(特に父親の参加を呼びかける行事が土日にいくつかあった)を経て、さらに子どもが同じクラスの子達と仲良くなって多少の交流が生まれたりする中で、僕も子どものクラスメイトと両親の顔と名前がある程度一致するようになり、またPTAの方の顔が何となく認識できるぐらいになりました。今回の運動会は、自分の子どもが参加する運動会というだけでなく、「知り合いの子ども」や「子どもの友だち」や「地域の子ども」が参加をする運動会である、と感じられるようになっていました。
去年は、「参加している園児の親」の気持ちを想像して「運動会ってすげーな。子どもの成長ってすげーな。」というような感動でしたが、今回はじわじわ味わえるものでした。自分の大学の時の関西での学生選手権を思い出しました(ある競技スポーツの選手と競技役員の二足のわらじで参加した)が、あの時は競技生活3年で培った自分の成長はともかくも、培った人間関係こそが楽しくて、大会自体がホームだと思えました。それに近い感覚として、競技大会が面白いのは、そういう関係性あってのものなんだ、と改めて思います。
幼稚園であっても色々な人がいます。祖父母同居も多いですが、うちと同じくのマスオさんもいます。アパートの人もいれば家を建てた人もいる。こういう場で父しか見ない人もいれば、母しか見ない人もいる。子どもで言えば運動のできる子も、できない子も、得意分野が違う子も、引っ込み思案な子も、前のめりな子もいます。うちの子も特筆するほど背は一番低いし、走るのは一番遅い。口は達者なのは親としてよく知っているが、多分友だちには伝わっているだろうし、もしかしてその親も何か聞いているかもしれない。
色々な人のバックグラウンドを見て知ったり、聞いて知ったり、それこそが関係の構築ってことなんだろうけれども、していくなかで、僕も子どもも世界が一様でないことを体験していく。そんな中で、単純な対決とか、差別とか起こりうるものだろうか?正直僕は隣にある保育園は友だち何だろうと思っているけどね。中にいる人は誰も知らないけれど。
性役割というものが、幼稚園では温存されているというイメージもあるかと思いますが、中にいるのは、本気の父親です。濃淡や個人差はあるでしょう。でも僕に見えるのは、「ただの父親」です。子どもと生きることを喜び、運動会に喜んで参加する父親です。解決すべき問題や対立は多いでしょうが、ここは「喜び」の場であることを実感しました。「父親」が「オワコン」だとしても、生きて動いています。
年少、年中、年長は、集団として見た時に本当に全く違います。成長の見本市として、運動会はそれを見せてくれます。「幼稚園はこういう成長を見守るところです」というように見えます。うちの子は、幼稚園に入ってから同年代の子と触れ合う機会が劇的に増え、劇的に成長しています。子どもとは、子どもの中にいるとこんなに成長するのか、と感じさせてくれます。
もちろん幼稚園という仕組みがいいわけではありません。保育園にも幼稚園にも含まれている成分が、子どもを育てていくのです。それが何かはわかりませんが、とても強力なものだと思います。
天が高い日でした。運動会をするにはとてもいい日(暑すぎたけれども)でありました。親であるにもいい日でありました。

地方にこもる若者たち

久々に読書というものをしましたが、文体は軽い方でした。しかし内容は僕には重いというか、地方に在住していれば、この本が調査対象にしている岡山も、静岡県西部も状況は変わりないので実感できることが多い。今までもそういう日記を書いてきた気もするが、この本では新しい公共にまで話が及んでいるところが斬新であり、救い。コミュニケーションの鬼である「ギャル」が日本を救う、と。
とにかく、今までは都会と田舎という二項でしか語られてこなかったものが、最近モータライゼーション(郊外型店舗ができてきていること)により「郊外」ってものがしっかり成立しているんだぜっつーことがもっと世間的にも語られて欲しい。で、郊外は結構広いというか、イオンができれば田舎を征服して半径車で1時間ぐらいのところを郊外に変えちゃうんだよね。都会は郊外に征服されないかというと、ドーナツ化現象みたいなことぐらいで、別に征服しはしない。多分。
で、可視化されなかった郊外が培ってきたというか、こっそり育ててきたのは「ギャル」なんだよね。コミュニケーションの鬼。新しい公共を開くのはこのギャルであり、統合(違いをいかし、競争優位性に繋げる。戦略的。)なんだと。自らのアイデンティティを立脚したあとで、それぞれに違う個人を統合するのならば、確かにコミュニケーションだし、そのエリートってのは現状女子が強い。よくわからんが、次世代はそういうスーパーギャルが社会を変えていくのかもなあと閉じたおっさん(分離・違いを認める・適応的)である私は思うよ。ダイバシティマネジメント的には抵抗→同化→分離→統合らしいよ。旧来のおっさんは同化(違いを同化させる・違いを無視する・防衛的)段階に留まっているらしいよ。

「考える」とは何なのか

「低学歴の世界」の話が賑わっています。幸か不幸か私は低学歴の世界も高学歴の世界も知らない一億総中流の世界を生きてきましたが、そんな私は昔「バカの壁」という言葉が流行った世界にいました。
Wikipediaによると、「人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能である。理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」ってのがそういう話だそうですが、私はそういう世界をこそ、感じます。言わば低学歴の人と高学歴の人が入り混じった世界。
「考える」ということが毒になるのか薬になるのか、自分が見ている世界には考えている人と考えていない人(もちろん考えているのだけれど。考え方の時間軸が違うとか、重視するものが違うとか。)がいるように見える。そういう考えている/いないは、低学歴/高学歴に関わらず、どちらも存在する。高学歴のほうが考えているように見えるだけだけど。
近視眼的、とか、短絡的、とか、時間軸が短い考え、というのもあって、考える時間軸の長短どちらにも生存上の利点があって、一定数残っているのだろうなあとか思う。
いつも通り話がバラバラしてきたけれども、低学歴の人たちは、生存に有利な世界があるのだろうと思う。階層の移動というけれども、例えば考える人とか、長い時間軸で考える人が、たまたま階層を移動する(高学歴のほうが相対的に合っているから)ということもあるのだろうけれども、近いところを見て行動することによって、物事を短絡的に考えることによってできることが、成し遂げ得ることがあるのだと思う。
大数効果というか、ギャンブルはたくさんかけるなら期待値に近づくけれども、数回かけるなら絶対期待値通りにはならない。けちょんけちょんに勝つか負けるかである。勝者は出る。
私は基本的には未だバカの壁の世界にいて、ひとびとというものをそこから見ているが、それってただの孤独だよなあと思ったりする。世間的にはもうバカの壁の呪縛は溶けていて、人と人は理解し合えないということを忘れて日々を営んでいるだろう。目の前をのみ見て生きることは、そういうことを忘れることに資するのだろうなあと思う。

お金がなくて、できない仕事

世の中にできないことはない!とエンジンを空吹かしする前にいつも思うのは草刈りのこと。
そう、あの草刈り。太陽あるところどこでも生える草という奴らを刈る、あの草刈りのことだ。
道路。
というものは公共財というかなんでしょうねーフリーライダーとかそういうのがあるので税金で作るってのが一応今のところの了解だとは思うのですが、道路の敷地に生える草ってのは誰が刈ったらいいんでしょうね。国交省都道府県は、「道路管理者だよ」と言い切るでしょう。ええ、言い切るでしょうよ。こちとら市町村と来たら無理ですよ。延長がどれぐらいあって、どれぐらい道路の利用者がいると思ってるのですか。道路の利用者が1人とか2人とかの道だって市が持っていたりするんですよそして草を刈っても何も良くはならないんですよ、元の状態に戻るだけで。しかも、はっきり言ってすぐ生えるんですアイツらは。
そんな私たちは、基本的に草刈りは危険ではないところはほぼ全て地元に丸投げしています。フリーライダーと言ってもはっきり言って誰が飯タダ乗りしてるのか見えるのでできるということでもありましょう。ここで現れるのは「地元」という黒い影。暗躍し、勧誘してきます。または八分し、拒絶します。それは別の話。
実は。
昨日仕事で草を刈ってきまして、そうそう、そうなんです。市職員っていうと、ある場面では草を刈りに行くのが仕事ってことがあるのです。草刈りほど生産的でない仕事はないですが、草刈りほど顧客に要求される仕事もないわけです。草ぼうぼうでは道が通れない。機能がマイナスになる。で、責任の所在や引き受け手がいない時は、市職員がノコノコと出て行くわけですが。
クラウドというか草刈りが仕事になるなら、やりたい人も多かろう。しかし、お金の出処がない。こういう「お金がなくてできない仕事」ってどうやって解決していくのでしょうね。市職員が刈れば解決?しかし雇うのに高い給料払ってんな。市職員にしかできない仕事に集中してもらえよってだいたい市職員にしかできない仕事ってなんだ?徴税か?

ロードサイドはもう古い!

田舎での話題ときたら、1にスマホに2にスマホ、3,4がなくて5にライン、なわけで、追手が迫っていますよ。スマホにあらずんば村八分、がリアルにネットで始まろうとしている現代にドロップキップでもノーノーノーノー必死で生きておりますが、何の話だったでしょうか、そう、スマホとラインが大流行でございます。
エビバデゴーズなわけで、ライン八分って普通にあると思うんだけど、高校生とか幼稚園ママとか連絡手段にライン持ってなかったらノケモノとかそういう時代が近づいている体感です。何なんでしょう、田舎とスマホとラインの親密性。田舎っておかしなもんで、急にファミコンとかゲームボーイとか流行ったもの。ケータイも急に流行ったし。まあ大学で神戸に行ってもケータイって流行ってたけど。まあ田舎に限らないけど、一端トレンドと化したら、「猫も杓子も」具合がハンパない。仲間外れ嫌病とかキョロ充とかギャングエイジがまだ続いてるとかそんな感じだけど、フェイスブックとかも一瞬で来て、そして去っていった。
何だか纏まっていませんが、今日は実はもうちょっと違う話を。
田舎と都会論みたいなのにインスパイアされたっつー話だけど。
ロードサイド寄りかと思ってたんです自分。でも、「国道沿い」って言われると違うってことに気付いた。うちは県道沿い。いや、うちだけではなくて、生活の主要なものが全て県道沿い、というか。国道にある店には全然行かないってことに気付いた。ロードサイド店ってのが随分前に賞味期限を切らしていたのだ。実はというかトレンドかはわからねど、ロードサイド店っぽく思われていたユニクロが、ジャスコ的なものの中に潜り込んでいたのだ。ユニクロジャスコの中に潜ると品揃えをちょっとオシャレにする。特別企画品みたいなのを置きだす。それはともかくとして、ジャスコのオシャレっぽさってハンパないので、「ジャスコで買えば何でもオシャレ」みたいになるんですよね。てなわけで、ロードサイド店にそれが欠けるので、ジャスコインサイド店にしか行かなくなってきている。
田舎にあるのは、ロードサイド、ではなく、ロードとジャスコ、みたいになってきた。
そんななかで面白いのは、ロードサイドっつって、「あー駅死んだー」みたいに思ってたけど、いや、駅生きてる。生きてるどころか、駅チカ物件人気だわ。最近で言えばどこにできたか知らないけどマークイズとかセノバとか菊 川駅にも何かできました。かと言って駅前には行かないんだけど、駅前の再開発自体は進んでいて、駅前に住むところができてきた。
実は遠 州って歩行者はいないところなんだけれども、大きく分けて2者のみ歩行者が存在する。酔っぱらいと小学生だ。そんなわけで、どんな時代であっても家探しに小学校は最重視され、さらに飲み会からの帰りの足となると電車とタクシーしかないので、駅チカが有利となりますよね。
まとめます。
・ここ遠 州では、目的地は職場とジャスコららぽーと含む)だけなので、便利なロードサイドにあまりこだわらなくてもいい。
・歩いて行くところは駅と小学校だけなので、駅チカ(小学校チカ)が人気。
実は意外と駅周辺とそこから離れたうちのような田舎とでは地価が違う、ということを今更理解しました。いや、うちの近くが安いのは知っていたが、駅が近くないから安いとは思ってなかった。
というお話。