ハンコ大流行!

印鑑証明コノヤローみたいな盛り上がりが最近あった気がしますが、それとは別にハンコってすげーんだよということをここにポツンと置いてみようと思う。

ハンコ。

ハンコ、とポツンと置いても意味はないのであるが、ハンコというものは署名の代わりのようなものである。成り立ちから見てもそうなのであるが、そういうのは流行り廃りということでもある。花押(図案化した署名みたいなもの。戦国時代に流行った。)が流行ったり、はたまた印鑑が流行ったり署名は定着しなかったり、と。
実際のところ、現在でも割と法的に強いのは署名である。署名押印という場合の押印なんて鼻糞みたいなもので、例えば戸籍の世界では印がなければ署名だけでもほんとはいいんス*1。でも何で押してもらってるかというとまあ惰性みたいなものでもありますが、訂正印のための印鑑って側面が強いんだよね。書類ってのは提出した段階で完成しているとせにゃならんので訂正してはいかんのだよね。で、訂正する場合には訂正したことがわかるように、訂正した2重線の上に訂正印を打つ。さらには戸籍届の欄外などに「捨印」ということで訂正印を打つが、あれがいい慣習なのかはともかく、書類に間違いなどがあったときに捨印を訂正印にさせて何字訂正とかって横に書けば訂正していいことになっているのだよね。これ本来何字訂正の上に印鑑打つべきだとは思うけど。てなわけでこういうコスいことは印鑑がなければできないことなので、行政はやたらハンコ持ってこいって言うのだよね。ここで触れると混乱する話なので軽くにとどめますが、行政に提出するだけで婚姻ができる制度は珍しいはずです。一応難しい書類だと思うので、代書屋を絡めない以上、これぐらいは必要かも知れんとは思う。現状では。
あとこんなん書いたらあれですが、ハンコは他人の承諾を代わりにする時にも役立ちますね。どういうところでも家族が本人に代わって承諾を示すだなんてことが多いですが、記名押印とかまじ誰やねんお前誰やねんですよほんと。まあ深くは触れますまい。他人の署名は書けませんね。で、他人の署名と言えば、印鑑証明なんてのがそうなんですが、印鑑証明は代理で取ることができますが、代理で取ったのに実印と印鑑証明を使えば、本人の意思を表すことができてしまいますね。こりゃ酷いっちゃー酷いんですが、仕事で忙しいサラリー諸氏が忙しくて役所に行けなくても、役所に何かを申請することができます。今更ながらに印鑑証明の仕組みを書きますと、実印*2を市町村に登録すれば、その陰影があなたの実印のものだと市町村が証明してくれる、というもの。だから使う時には必ず記名や署名に対して実印を打ったものが必要です。その印影がその人の実印のものだよと証明するのが印鑑証明ということです。
えーと、件の議論がどういう議論だったかは忘れましたが、ハンコってのはこのように便利なので、この流行は今のところ収まる気配はあまりないです。電子証明書というものも10年ぐらい前から始まってるんだけど、流行ってないですし。
「俺は俺だ」を証明するのは難しいし、「あの俺は俺の言いなりになるから何とかしろ」ってのはグレーなんちゃうの…。

*1:もう5年関わってないから記憶が薄いけど

*2:というのは実態があるようでないね。100均で売っているようなものではなく、世界に一つの陰影であるもの(作ったもの)が望ましいとされてるけど、100均で買って「これはハンコ屋で作ってもらったんだ!」と怒れば実印にして貰えると思います。

私権を制限すること

行政ときたら、嫌なことを誰かに言う仕事でもあるというか、そういう人に「うん」と言ってもらうのが仕事って感じでもあるよね。
私権を制限する、ということは主に行政に付託されているようなことだ。法律の徒でありながら法的なとこは適当にして言うけど、誰かの自由な権利を制限する権利を行政は与えられているという感じがあるな。
行政も私権を制限したいわけではない。
もっと言えば客層―――民間の方が日々対峙している方たちと変わらない―――というものが割とクレーマー的なとこはあったりもするわけです。いいとか悪いとかではなく、日本を世界でも稀なサービス完璧主義大国に叩き落としているのがこの世界一厳しい客層たる日本人っていうステレオタイプな言説をここに持ってきますが、そこに晒されているのは我々も同じです。お客様は神様ですという人あれば、公務員にとっても住民は神様になるのです。例えば、自称であっても。
そういう淘汰圧みたいなものが我々行政マンを作っていくわけですが、私権の制限しんどい。
例えば10人にそういう網を投げた時、当たりが一人いたりします。僕らとしても当たりがどこにいるかわからないので、もういる前提で仕事をします。今まで温厚だった人が、君子豹変すと言いますが、元来の意味は君子は頭が切れるので豹変して素晴らしいことをするって意味らしいですが、君子豹変して僕ら行政マンけちょんけちょんのパーということは起こります。そういう中で無駄な準備であるとか、アフターケアとか気を使うところです。
行政の非効率、というものが叫ばれたりする昨今ですが、チキンたる公務員、ガクブルしながら私権の制限に対して色々な準備をしています。前例踏襲というのもそういう点がありますが、あとはやはり法的なリテラシーの醸成というか、法律を読んで大きく強くなろう!というのがチキンさんの心の拠り所でして、法的な作法には異常に敏感になります。そうしてはじめて人に怒られたり嫌われたりする仕事ができるというものです。

エクセル方眼紙がなんでダメかわからない

まず、自分はそういうのやったことないってことと、職場でも10年目だけど出会った記憶がほぼないってことは置いておいて。
エクセルってそんな人にワーワー言えるほどキレイに使えてます?自分がガラパゴスってるのはすげーわかる。めんどくさいとif関数しか使わないし(ifが10個とか)、まあ僕逆に見た目気にしないので住所とか名前とか印刷するとお尻が切れてたりしてまあ個人的にどーでもいいと思ってはいるのだけれども他人から見てどうもイメージ違うみたいね。
だいたいがエクセルファイルなんて他者に引き継げたもんじゃない。ファイル開いてマクロ使ってるとめんどくせーって思うし、表だってこれお前が見やすいだけちゃうんってイチイチ思う。で、一昔前までは引き継がないで割と自分で組み直してたりしてたのだけれど。
まあいつから潮目が変わったかわからんけど、最近表計算ソフトって流行ってない気がするんだよね。自分のPCにワード・エクセル入ってるのが絶対嫌だったので、オフィスなしのを買っていて、オープンオフィスをしばらく使っていたけれども、表計算ソフトなんてあんまり使わん。今はリーブルオフィスのほうが主流なのかな。
ウェブベースってのもある。潮目が変わったと思うのは多分クラウドとかgoogleなんとかからだと思うけど、表計算しなくていいじゃんっというか。
で、職場で言えばエクセルから専門ソフトに移ってきているよね。まあどうでもいいのはエクセルで作るとして、主目的のところなんかはデータベースというかアクセスを経由して専門の別ソフトでやるようになっていくイメージがある。そういうソフトウェアに金かけねばならんかったのだよ今までも。で、成果物としてはcsvとかで吐き出すとかそういうねー。xmlのほうがいいのかもしれないがわかりません。
今現在エクセルってのは趣味とか非効率の部類に入ってきていると思うのだよね。個別では非常に便利であるけれども、全体として最適にはできないと思う。それなら…俺は全く興味がないけど、エクセル方眼紙でやりたい人がそうやったっていいと思う。職場で見たことないのでどういう性格の人がやってるのか知らないが…。
エクセルはすでに皆のエクセルではないのではないか。もはやエクセルはあの時の輝くエクセルではないのだと思う。

行政の情報インフラはgoogle

というのはもはや行政に限った話ではなく、もちろん私の全ての情報インフラはgoogleなわけですけれども、いや、仕事中にgoogleで検索、いわゆるググりますわな、という当然の話。法律を調べるのも事例を調べるのもgoogle。で、今となれば当たり前過ぎるんですが、確か8年ぐらい前からだと思うが、googleマップが登場して、現在は完全に定着している。さらに今年に入ったぐらいから日本のかなりの範囲でストリートビューも見れるようになった。これはかなり行政にとっても画期的で、現地に行かなくても地図上で現地の状況がわかったりってのは仕事に相当使えます。
これらは無料のサービスなわけだけれども、そして広告で成り立っているんだと思うんだけども、形として行政の情報インフラを民間企業であるgoogleが担っている、とも言える状況。オオヤケを民間が担えるんだということでもあるし、googleレベまで行かないと担えないのかってことでもある。
そもそも行政もgoogleも、ある意味では「世界中の情報を整理する」というミッションを持っているという点では同じだと思うのです。いや、世界全ての企業は同じなのかも知れない。このように僕らは同一のミッションを持っている。全ての人が世界を整理しようとする中で、お互いがお互いを助けるのかな、とも思うのです。
よく言われるようにgoogleマップはゼンリンの地図を利用している。ゼンリンの地図はすごくて、ゼンリンの社員が全国を歩いて各戸の住所とかを登録している。そのお陰で住所で検索すればゼンリンの地図でその場所が出るし、その場所が出ればストリートビューでその場所の写真まで見れるわけですよね。あとはそこに行政の持っている情報なんかも足し込めればな、ってのは昔から思っていることではありますが。
実を言うと行政は、というかうちの市で言えば、もっと強力な行政用のGISを持っている。ストリートビューはないけど、航空写真ももう少し鮮明だし、土地の地番図もあるし、土地所有者も調べられる。道路の路線名も載せられる。こういうのを個人情報とかに影響しない範囲で一般にも活用できるようになればいいのよねー。

三世代同居の現在

あるブログで三世代同居について書いてあるのを見つけた。

みなさん、“3世帯同居”って聞いたら、どー思います? 「ああ、うちも昔はそうだったよ」って感じでしょ。「3世帯同居が減ってるって? それは問題だ! 3世帯同居がどうやったら増えるか、みんなで知恵を出し合って問題を解決せねば!」って思う?

話の本筋と関係ない話だけど、今でも3世帯同居って多い。1975年に15%ぐらいだったのが現代では8%ぐらいというのを見かけたが、その真偽はともかく、田舎での3世代同居(ここからは代を使います)ってのは割と経済的な問題でもあるのよね。こっからは与太話になるのだけれども。自分の観測範囲の話で恐縮だが、親世帯と同居する意味って、昔は財産や仕事など含めた「家督」の相続って意味だったと思うんだよね。そんなわけで昔から現在まで核家族は大雑把に50%以上は占めているわけで、当時から次男以降は新家である核家族をどんどん形成していたのよね。で、こういう新家は継ぐべき財産(というか管理すべき土地って意味)や仕事を持っているような家ではないはずだから、三世代同居にはあまりなっていかないはずなんだよね。結局三世代同居ってのは江戸期から続く家(もともとが三世代同居を常としていた)がそもそもの母数であって、日本の人口が増えたって増える話ではないのよね。で、減るもんでもない。
こういう三世代同居が現在どうなっているかというと、まず長男としては、まあ結婚相手として長男は嫌われますので、下に弟がいれば「家は弟にまかせるから」と言って結婚したらどっかに家を建てて戻って来なかったりしますね。それはともかくとして、そうではない場合、本人に責任感や思い込みなどがあり、経済的に魅力がある男性だった場合は、三世代同居を決行できます。その場合どうするかというと、まず、実家の敷地もしくは実家所有の敷地に家を建てます。これが現在の三世代同居ですが、実際は同居としてカウントされません。
で、現在結局のところ主流になっている三世代同居は、マスオさんの形だと思います。あ、名字なんて基本どうでもいいので、通称婿養子になってるかどうかはこの場合どうでもいいです。本当に同居する場合は、母方の親ってのが多い気がする。
よくわからんけど、母系になっている気がするんだよね。っていうかもともと母系だったのだろうけど。結局のところこの田舎で困っちまってるのは広大な敷地や建物や菩提の管理などを子が引き継いでって欲しいっていうこと。そのへん長女の責任感と結局子育てで母方祖父母頼るし土地買うだけで1000万円だし男は鈍感だし、で増えてるのかなあ、と。田舎の三世代同居用の家というか敷地ってのは3世代同居どころではなく昔は仕事関係の人も住んでたりそもそもそういう仕事関係でスペースがあったりとめちゃ広いわけよね。それがだんだん人が減ってくると寂しさたるやなかなかのもので、そういう秋波が強いのではないかな。男はそういうの気にしないけど、娘は気にしがちなようで。
話はまたフワフワしますけど、田舎の三世代同居の人たちってもともと確かに家業はあったのだが、それも平成も25年も経つと、農家ぐらいしかそういう家業は続いてないし、農家こそオワコンで実際のところあんまり農家でもない。本来であればこの地から撤退したいところだが、国策によって縛り付けられているのよね。農業からの撤退って非常にしにくい。農家じゃなくても(農家やめても)、農地どうすんのってのがあって、農地は基本農家にしか売れないし、買えるぐらいの農家なんてほぼないし、農地から宅地にするのとか超難しいし(もちろん区画整理内の農地はすぐ宅地にできますよ)まじ動けんのよ。でもモータリゼーション進んでて田舎でも割と便利は便利だしはっきり言えばゆでガエル。東北の話を憶測でしてはまずいけれども、うちの近所で海辺に災害が起きて家がなくなっても、誰も(いや、多くは、と言いましょうか)同じ場所には戻らんと思うですよ。そこに仕事があるわけではないので(いや、工場はあるけど、多分一緒に潰れるだろうし)。
三世代同居は確かにオワコンではありますが、それって農地がオワコンって話と一緒でして、結局まだやめさせてもらってないのよね。
農地の税金って糞ほど安いのです。これはもう飴と鞭です。農地を農地として腐らせとくのはとっても安いので、草刈りしなきゃならないのだったら、それよりはタダみたいな値段で誰かに耕作してもらうってのが田舎の実態であって(農家なんてあんまりいない)、本来であればそういうことから撤退したいよね。
最終的に駅近にみんなが移住して、田舎の宅地も全て農地にして法人が全部耕せばいいと思うんだけどね。

歩く街

遠い州に住んでいると、そして遠州灘に近い方に住んでいると、つくづく飲み会の足がないことを実感する。東海道は53次のちょうど真ん中ぐらいなのだけれども、そっからけっこう南なんだよね。という話でどれぐらいの方が実感していただけるかはさておき、この地は車社会で、公共交通機関に乗るのは結構たいへんなのだという話。
で、まあ飲み会があったりすると無理やり歩いたりする範囲もあるのだけれども、歩ける道と歩けない道がある。駅近とか言いますが、やっぱり2kmぐらいまでですかね、歩くのは。人間は時速4kmぐらいで歩くといいますから、30分ぐらいまで。それ越すとつらい。
最近でこそ歩くことを全く考えない街作りになってはいますが、昔の集落で考えるとやはり歩ける範囲というか、歩く範囲ぐらいが集落ですよね。で、だいたいそこが一つの行政単位だった、と。明治の最初ぐらい?
もっと前になると江戸時代なわけですが、うちとこは6万石ぐらいの小藩の外れではありましたが、お城までは2kmぐらいでかなり余裕で歩ける感じですね。うちの一帯はうちも含めて瓦を作っていたので、城下まで運んだということもあったのでしょうか。
ふわふわした話をここで1つはさむと、祖父の代に県道に用地を売って、集落を分断する形で県道はできたのですが、「歩く」という観点では、不思議なことになりました。子どもを連れて散歩していたりしても、ここに県道がないのが普通だなあ、と、歩行者としては体感できます。具体的には大人が手を広げたぐらい、1.8m幅の道が県道のこっちとあっちにあるが、県道を横断するのは難しい。モータリゼーションには正しいことだけれども、世界ふれあい街歩き的なところからは寂しいところではあります。私はモータリゼーション側の人間ですが。
私のお仕事に絡めた話をしますと、区画整理というお仕事は割と連続性がないですよね。過去との連続性もなくなりますが、縦横の連続性もなくてもできるというか。いや、アクセスという点の連続性はもちろんあるんですが、そこから隣の集落まで歩けなくても住宅地ができちゃうというか。車社会では正しいことなんですが、歩いても楽しくないのかもなあ、とも。
どんどんどんどんそういう宅地開発が繋がっていけば面白いのかもしれないけど、今はその途中なのかもなあ。
で、ちなみにそういう基本的には歩く人がいないような遠い州で、僕の生まれ育ったようなところは「歩く」という意味が消失している。大昔とは違って歩いて村役場に行けないし、軽便鉄道も走ってない。歩いてはどこにもいけない。モータリゼーションに繋がってるのでとりたてて不便ではないが、飲み会には不便。いつか面白く新しい開発に飲み込まれればいいなとは思っている。

都市の進化

土木のお仕事、と言いますか、私のもう一つのお仕事は、「都市計画道路の建設に関わる土地の買収」みたいなことになるのですが、前任者の続きから入るので、実際に用地交渉とかに入るのはまだ先のようです。それはそれとして、都市計画道路を絡めた話を。
道路ってのは皆さんご存知のものかと思いますが、通行したり、排水したり、給水したり(水道管が埋設されたり)、いろいろな機能がありますが、都市計画道路というのはそういう現実の道路ではありません。いや、もちろん現実に道路になっているところもあるのだけれども、「計画」段階の道路もまた多数含まれます。都市計画道路ってのはその都市の「そーおだったらいいのにな♪」という理想のルート(道路用地の中に民家があろうが何があろうが関係ない(こともない))で地域間をフリーハンドで繋いで決めているものです。
道路ってのは闇雲に、例えば今日「僕が考えた最強の道路」を役所に訴えればできるってもんじゃあないです。地元で纏まって「こううれば問題解決になる」って訴えるという形もあるけれども、基本はこの都市計画道路以外は無茶な新設ってしないと思います。
で、都市計画道路ってあまりに理想過ぎて、実現が困難だったりします。家を軒並み薙ぎ倒すルート、河に橋をかけ山を崩すルート、こういうのは非常に実現が困難。てなわけで、実際何十年も前に決定されたまま、一向に整備されてない非実在道路が多い(この点、非常に批判は多いけどね)。そうではあっても、今作ってる道路はこの都市計画道路だったりする可能性は高いのよね。
で、この都市計画道路は各自治体のホームページ等でも割と公開されているはずなので(都市計画図とかね)、自分の住んでいるところの計画を見ることも可能です。あの工事している道路、実はここまでしか道が作られる予定がないとか、え、あんなとこまで計画があるの、とか、見れるはず。
都市計画ということで言えば、街の姿はある程度計画がされている。何にも考えていないように見えて、行政はある理想形へ向けて都市の整備を進めている。地区には性格や規制や投資されたものがあり、そういう制約から一応の計画というのは立てられているのだ。
と、いうお話と、都市の賞味期限のようなお話と。都市の整備は簡単なイメージでは30年以上前から行われていて、初期の整備はかなり賞味期限が切れ出しているのだ。そういうところの道路を回ると、現在ではあまり人気がないような区画になってしまっている。道が狭い、高低差がきつい、地盤が悪い、敷地が狭い、等々。例えばこのへんで車が1台しか停められないとか今では考えられないしね。
昔は土地神話のようなものがあって、買えば上がるとか土地は財産的なところがあったが、今の視点からはそういうところの土地を買いたいかというとあんまりな感じになってしまう。前記事のように土地ってのはどんどん生まれるものだ。農地はどんどん減少しているし、はっきり言えば市街地の農地は減少させねばならぬ。重機の進化はきっと山をもっと切り崩し安くするだろうし、田をもっと地盤改良するようになるだろう。宅地化できる土地は増える。都会であっても、大阪の梅田北ヤードのように都市機能の整理や集約によって生まれる土地もある。建物の高層化もある。
このように、都市というものは、計画から整備されるものでもあり、時代の経過によって整備されるものでもある。都市は思っている以上に変わる。都会であれ田舎であれ、ですよ。それは「整理する」というのが都市の本質だからだと思うのです。