「考える」とは何なのか

「低学歴の世界」の話が賑わっています。幸か不幸か私は低学歴の世界も高学歴の世界も知らない一億総中流の世界を生きてきましたが、そんな私は昔「バカの壁」という言葉が流行った世界にいました。
Wikipediaによると、「人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能である。理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」ってのがそういう話だそうですが、私はそういう世界をこそ、感じます。言わば低学歴の人と高学歴の人が入り混じった世界。
「考える」ということが毒になるのか薬になるのか、自分が見ている世界には考えている人と考えていない人(もちろん考えているのだけれど。考え方の時間軸が違うとか、重視するものが違うとか。)がいるように見える。そういう考えている/いないは、低学歴/高学歴に関わらず、どちらも存在する。高学歴のほうが考えているように見えるだけだけど。
近視眼的、とか、短絡的、とか、時間軸が短い考え、というのもあって、考える時間軸の長短どちらにも生存上の利点があって、一定数残っているのだろうなあとか思う。
いつも通り話がバラバラしてきたけれども、低学歴の人たちは、生存に有利な世界があるのだろうと思う。階層の移動というけれども、例えば考える人とか、長い時間軸で考える人が、たまたま階層を移動する(高学歴のほうが相対的に合っているから)ということもあるのだろうけれども、近いところを見て行動することによって、物事を短絡的に考えることによってできることが、成し遂げ得ることがあるのだと思う。
大数効果というか、ギャンブルはたくさんかけるなら期待値に近づくけれども、数回かけるなら絶対期待値通りにはならない。けちょんけちょんに勝つか負けるかである。勝者は出る。
私は基本的には未だバカの壁の世界にいて、ひとびとというものをそこから見ているが、それってただの孤独だよなあと思ったりする。世間的にはもうバカの壁の呪縛は溶けていて、人と人は理解し合えないということを忘れて日々を営んでいるだろう。目の前をのみ見て生きることは、そういうことを忘れることに資するのだろうなあと思う。