運動会と、僕らの空が高いこと

本日、雨予報がまさかの運動会日和。っていうか日差し、痛すぎ!帽子がなければ死ぬような天気で幼稚園の運動会が執り行われました。
うちはどちらの親も市内(しかも片方は同居)という保育園無理環境なんですが、そんなわけで今日は夫婦のどちらの親も来て、大人の手は余るほどでした。上の子3歳が運動会に出場しますが、下の子2歳は主に義両親に見てもらって僕はビデオ担当でした。
去年は2歳だった上の子が「ひよこ組」として特別に参加(プレ何とか言う一連の流れ)させてもらった時は本当にアウェーと言ってもいいぐらいの気持ちだったものが、本日は本当にホームだという思いで参加をさせてもらえました。4月からの半年で、いくつかの行事参加(特に父親の参加を呼びかける行事が土日にいくつかあった)を経て、さらに子どもが同じクラスの子達と仲良くなって多少の交流が生まれたりする中で、僕も子どものクラスメイトと両親の顔と名前がある程度一致するようになり、またPTAの方の顔が何となく認識できるぐらいになりました。今回の運動会は、自分の子どもが参加する運動会というだけでなく、「知り合いの子ども」や「子どもの友だち」や「地域の子ども」が参加をする運動会である、と感じられるようになっていました。
去年は、「参加している園児の親」の気持ちを想像して「運動会ってすげーな。子どもの成長ってすげーな。」というような感動でしたが、今回はじわじわ味わえるものでした。自分の大学の時の関西での学生選手権を思い出しました(ある競技スポーツの選手と競技役員の二足のわらじで参加した)が、あの時は競技生活3年で培った自分の成長はともかくも、培った人間関係こそが楽しくて、大会自体がホームだと思えました。それに近い感覚として、競技大会が面白いのは、そういう関係性あってのものなんだ、と改めて思います。
幼稚園であっても色々な人がいます。祖父母同居も多いですが、うちと同じくのマスオさんもいます。アパートの人もいれば家を建てた人もいる。こういう場で父しか見ない人もいれば、母しか見ない人もいる。子どもで言えば運動のできる子も、できない子も、得意分野が違う子も、引っ込み思案な子も、前のめりな子もいます。うちの子も特筆するほど背は一番低いし、走るのは一番遅い。口は達者なのは親としてよく知っているが、多分友だちには伝わっているだろうし、もしかしてその親も何か聞いているかもしれない。
色々な人のバックグラウンドを見て知ったり、聞いて知ったり、それこそが関係の構築ってことなんだろうけれども、していくなかで、僕も子どもも世界が一様でないことを体験していく。そんな中で、単純な対決とか、差別とか起こりうるものだろうか?正直僕は隣にある保育園は友だち何だろうと思っているけどね。中にいる人は誰も知らないけれど。
性役割というものが、幼稚園では温存されているというイメージもあるかと思いますが、中にいるのは、本気の父親です。濃淡や個人差はあるでしょう。でも僕に見えるのは、「ただの父親」です。子どもと生きることを喜び、運動会に喜んで参加する父親です。解決すべき問題や対立は多いでしょうが、ここは「喜び」の場であることを実感しました。「父親」が「オワコン」だとしても、生きて動いています。
年少、年中、年長は、集団として見た時に本当に全く違います。成長の見本市として、運動会はそれを見せてくれます。「幼稚園はこういう成長を見守るところです」というように見えます。うちの子は、幼稚園に入ってから同年代の子と触れ合う機会が劇的に増え、劇的に成長しています。子どもとは、子どもの中にいるとこんなに成長するのか、と感じさせてくれます。
もちろん幼稚園という仕組みがいいわけではありません。保育園にも幼稚園にも含まれている成分が、子どもを育てていくのです。それが何かはわかりませんが、とても強力なものだと思います。
天が高い日でした。運動会をするにはとてもいい日(暑すぎたけれども)でありました。親であるにもいい日でありました。