流動化礼賛

封建社会が終わって、日本は流動化を始めたわけです。明治に戸籍が作られるわけですが、それでも世帯の構成と住所はセットだと考えられていたようで、実質と乖離して初めて住民票という住所を管理する台帳が分離したわけです。
まあそのように、実際は流動化する住民を後追いで制度が追いかけているわけですが、何というか、屋上屋を架けるというか、追加やパッチにコストがかかりますよね。ついつい昔は良かった、なんて思いがちなことで。
私達課税の担当としても、この流動化によって年々コストがかかるようになってきている。住民の異動があると、それだけ所得の把握にコストがかかるし、納税についても流動化によって、継続的な住民でない方からの徴収が難しくもなる。
現在の発展したホスピタリティ意識の中で「民間並み」「コンプライアンス」「説明責任」ぐらいのことは求められます。それなら民間がそれらを可能にした方法で、地方公共団体もそれを実現すればいいのですが、制約もある、と。
まず、デジタル。これを用いて効率化すれば良いのです。顧客番号、お問い合わせ番号、とかくデジタルは数えられる。というわけなんで、地方公共団体もデジタルを導入して、至る所に番号をつけているわけなんですが、まあその番号の多いこと、連携してないこと。共通する番号を使わせてもらえないことがその障壁となっているのですね。
話は戻って、戸籍や住民票による住民管理についてなんですが、これらには一意の情報がないから、住所氏名生年月日性別などを総合的に判断して個人を特定するわけです。その個人特定ってのがほんと難しくて、住所は変わるは名前も結婚で変わるわ。生年月日は間違われるわでほんとタイトロープな感じ。
もともと戸籍から始まったこのシステムは、流動的な自由な異動を想定していない。では過去に戻れば、共産圏になって仕事も固定化されれば解決するのか。いや、この社会の恩恵、この流動化が全て作っているでしょうよ、と。水は高きから低きに流れるのは道理なおかついいことであって、障壁がなくなれば各人は必要なところに流れる。もし終身雇用なくなれば、必要な労働に必要な人員も流れよう。いや、とにかく人の自由意志を阻害することが間違いだ。私達が引き継いでいくべきは、この自由だ。
流動化を進めるにはもはやこの制度は限界に来ている。流動的な給料の貰い方や、流動的な人の異動。アパートなんかがそれを可能にして、舞台は整ったわけだ。もうこれは国民総背番号しかないわけよ。
僕達の自由を守るための背番号。そうとなれば、主眼はもうどうそれを管理するべきかにおけばいいと思うのになあ。

※ちなみに前回の続きは書けそうな気がしません(時間的に)