英語

英語が苦手だという話は、ありふれた話ではあるが、僕ももちろん英語が苦手だ。今まで生きてきて、まともに英語で話ができたとか、文章が読めたとかいう覚えがない。中高と6年間、さらに大学でちょこちょこと勉強したのに、という。
そんな私も二児の父であって、しまじろう先生とかから日々「英語どうすんねんコラ」等とDMにて叱られる日々である。え、一週間ごとに?
さて、何となく自分の英語に対する考え方を書いて整理したいと思う。そもそもの最初から振り返る。1980年代、僕が幼少時代を送っている間、英語というのは遠 州の田舎ではまるで日常的ではなかった。両親が全く英語に親和的でなく、英語を話す人も見たことがなかった。1990年代のティーンエイジャーである僕は、英語というのを勉強・受験のためのものとしか見なかったし、多分周りの大人もそうとしか見ていなかっただろう。数学や理科や歴史などに思うことと同じく、「いつ、何に使うねん」というのが英語に対する考え方だった。
「ハローナンシー」「ヘイチケオ」中学の最初の教科書は多分こんな風だった。僕ら小学校あがりは、「チケオ」にばかり興奮して、英語=チケオだと刷り込みされてしまった。こんなのほとんど非日常だ。
もちろんそんな日は僕には訪れなかったが、いつしか英語にとっての日常は変わっていった。僕らにとって、ティーンエイジャーの終わりから、日常を全て変えるようなものが、英語にとっての日常も変えてしまったのだ。つまり、インターネット。
インターネットが日本の日常における英語を知らず知らず拡大した。どんな日本人も、日常で英語に接続できる環境ができた。インターネットの進化は、さらにグローバル化とも重なる。世界はつながり、フラット化*1した。
日本では1990年にいわゆる「バックドア」を開けて、海外から日系人を受け入れだした。日系人というのはほとんどがブラジル人(ブラジル以外の南米人)とフィリピン人で、つまり、ポルトガル語スペイン語タガログ語(英語)話者が入ってくるようになったということだ。
そんな話は1990年代の僕は知らない事だ。そして、僕が大学に行っている間に遠 州の日系人は急増していた。実家に帰ってきて、外国人登録に関わる仕事をして、住民の5%*2が外国人になっていることを知ったというわけだ。
そんなようなことを当時末端からの国際化という日記に書いた。
実際にそういう外国人の方と仕事でコミュニケーションを取っていると、日本語以外の言語は喋れないけど、言語的なコミュニケーションに対しての色々な考えが醸成される。世界の言語の基礎知識、というようなことで、まず、どこの国の人が何の言葉を喋っているかということを意識するようになる。ブラジルはポルトガル語であり、旧宗主国ポルトガルよりもポルトガル語話者が20倍もいることとか、フィリピン人はタガログ語を話すけれども、英語も話せるらしい、ということ。等。
そういう世界の言語の基礎知識は、コミュニケーションの役に立つ。何がどうなって役に立つかわからないが、どこかで役に立つ。英語を勉強している時に、「L」と「R」の発音が違うということを習い、そして未だに区別できていないけれども、その知識は、ポルトガル語では「L」を「ら行」で発音し、「R」を「は行」で発音する、ということを知る時に役に立つ。話をしている相手が「ロナウド」なのか「ホナウド」なのか、そういう少しの知識がコミュニケーションを変えることもある。
フィリピンの人と話している時に、税のことは「tax」といい、数もone,two,threeと数えることを知る。植民地主義の時代に、欧米列強の言語は世界を駆け巡り、そして世界にその子供たちを作っている。フィリピンやインドの公用語に英語があり、さらに現地の言葉にも影響を与えている。
僕が実際に外国人と話している時に、日本語の中にもそういうものがあった。外国人にも通じる日本語として、「ザンギョウ」「カイシャ」等があり、ピジン化しているかもなあと思ったこともある。
ピジン言語というのは、現地人と貿易商人などの外国語を話す人々との間で異言語間の意思疎通のために自然に作られた混成語(言語学的に言えば接触言語)だそうだ。(英語の“business”が中国語的に発音されて“pidgin”の語源となったとされているんだと)
ピジンでいいんじゃね?と。シンガポールの英語はシングリッシュと呼ばれたりするし、そういうのは他にもたくさんある。朝鮮語だとコングリッシュだし、日本語だとジャングリッシュ。そういう呼ばれ方が、揶揄とか侮蔑の中に入るようなものだとしても、それが母語ならその人にとって重要なものだよね、と。
そういうジャングリッシュすら喋れたことがない僕自身にとっての目標は、目指せジャングリッシュ!だし、子どもたちにも母語の一部としてジャングリッシュを教えたい。将来それで発音が悪くなって恨まれたいぐらい。それに気付けるなら親を超えたということだしね。
高い目標を持つなら日本人の教える英語は害かも知れないけれども、今のところは「親が教える」コミュニケーションに役立つ言語、ということを重視していて、自分が英語を教えていこうかなあと思っている。

*1:「フラット化する世界」はもう7年も前に書かれている

*2:リーマンショック後の今はそんなにいない