祖母の死

去る9月17日に父方の祖母が亡くなった。その2日前に肺炎で入院したばかりで、それまでは4,5年ほどリハビリ施設に入所して、ほとんど歩けてはいなかったが、亡くなるとは誰も考えていなかった。父も入院に付き添いはしたが、亡くなる前日夜に病院から呼ばれるまでは、考えていなかった。
父方の祖母、というのは僕にとっては長く同居した祖母である。むしろ共働きの両親に代わって僕を育ててくれた親代わりの祖母であったかもしれない。そういう意識があればよかったが、長じてからの祖母の周りとのズレ具合(安直ではあるが、「極度のKY」)から、そんな意識どころか、亡くなっても悲しくないだろうぐらいに思っていた。
当たり前というのは怖い。それがなくなってから気付く。
最初に後悔したのは、まず、僕が亡くなる直前に会いに行けなかったこと。まあ直接その場にいたのは僕の父母だけだったが。あとは曾孫である僕の娘を数回見せに連れていっただけであること。妻を1回連れて行っただけのこと(これは妻に対して悔やんだ)。どれもこれも後の祭り。日々後悔なく生きていこうと改めて思う。
良かったことと言えば、全てその裏返しで、娘を数回連れて行けたこと、頭もはっきりしていたので娘の名も覚えてもらい、娘が来るのを楽しみにしてもらえたこと。妻も2年前ではあるが、一度は会ってもらえたこと、だ(妻が多忙で後回しにしてしまった…)。
祖母は遠州を一歩も出たことがないような人である。女学校を出たことが自慢で、頭は良かったのだろうが、時代がそこで止まったかのようであった。結婚前に働いてもいない。イエからイエを移動しただけだ。僕ら孫にしては、びっくりするようなことが度々あったが、同時代の人からもびっくりするようなことがあったらしい。個性だったというわけで、それは改めて知った。
祖母の姪にあたる人が祖母と一番近しいと呼べるのだが、その方からいろいろお話を聞く。靴を買いに行ったのだが、23.5(自分のサイズ)と25のサイズの同じ靴が売っていたが、値段が同じなら大きい方が得だと、自分のサイズではない25のサイズの靴を買ってきたとか、香典の封筒が安売りしてたので30枚も買ってきて、姑に怒られ(「それだけ不幸が出続ける!捨ててこい!」と)、実家の仏壇にこっそり仕舞いにいったとか。
簡単に言うと、ケチだった。別に生家もうちも貧乏だったことはないのに。
僕は、自分のことをケチだという視点を、祖母は持っていないのだと思っていた。
葬儀は自宅で行うことになった。二間続きの和室と縁側の襖を全て取り払うと、そこそこの空間ができる。葬儀の全てを自宅で行うので、空き時間等に、親族へ思い出話のネタにでもなればと、亡祖母の部屋をいろいろと片付けていたら、俳句を読んだのが出てきた。ケチでKYだと思っていたが、自分でもそれを自覚するという一面や、風流人のようなところもあったのかと初めて知る。
「もの忘れ 貸したお金は 忘れない」
「新聞は 安売り広告 先に読み」
「孫たちに はずんでくれた(あげた) お年玉 帰ればさみし 懐の中」
考えてみれば裏表のない人で、人に嫌われたこともなかったのかも知れない。
弟がトイザらスで買ってきたというシロクマのぬいぐるみが居間にはずっと置いてあった。そんなものは祖母は見ていないと思っていた。ところがそれを書いたらしき書き物が見つかった。どうやら新聞のコーナーに応募しようとしていたらしい。「白い犬のヌイグルミ」んー、犬なんかあったけっか、と思いながら読んでいると、「小首をかしげ」とか「手と足を幼児のように前に投げ出し」これはやっぱりシロクマのぬいぐるみのことだな。このぬいぐるみがとてもかわいくて、話しかけているという話が書いてある。「名前はまだない。私が勝手につけた。白君と…」
そして下段。「今度は僕の番だよ」と白い犬が喋りだす。まさかそんな軽妙なこと考えてたとは。白い犬がここに来た経緯、辿った道。今はテレビの上にいて、「下から歌や落話が聞こえてきて楽しい」みたいなことを。締めは「今日も一人でお留守番するよ」
皆で大笑いして、しんみりした。生前に知っておけばよかったんだな。通夜まではこのように割と楽しく過ぎ、葬式の前の火葬、最後だと言われて花を手向ける時に、泣けてきた。止まらなかった。何にも顔が変わっていない。死因は肺炎でそれ以外にはないから。死後時間が経つので浮腫んではいたが、それだけ。これで最後なんだなあ。


うまいとは思わんが、祖母の句「蝉しぐれ 何時しか去りて 秋風の吹く」