保守

一般に流布する言説には保守的な、右傾向のものが多い。人間の感覚ってのは文化の発展に追いついていなくて、1万年前の狩猟採集時代に最適化している。一例を挙げると、当時脂肪ってのは貴重だったから、取ったら体に貯めるようにしていたわけね。それが現代では生活習慣病のもとになる、と。因果なもの。
保守とか右翼とかってのは、ある程度はそういうもの。人間の選択というのも、ある時に最適だった行動を、続けるようにできている。例えば人間は1万円を失うことの痛みと得ることの喜びの絶対値は等しくない。失う痛みのほうがより強い。このように、選択にもバイアスがかかってくる。
素朴な感覚、例えば「当たり前」とか「常識」ってものの中には、こういった意味での「当たり前」や「常識」もある。
しかし、時代が変わって、脂肪は手に入りやすくなり、いかに体から遠ざけるべきかを考える時代になった。脂肪が悪い、という知見は、人類の過去の叡智の蓄積から答えが出ている。「体の求め」と「体にいいもの」が違うということは起こり得て、それを知って「体にいいもの」を選ぶことができるようにもなった。
選択のバイアスも同じように。心がいくら1万円の損失を嫌がっても、賭け事のオッズはそれとは別に公平である。1万円の損と1万円の得が同時に起これば収支はトントンである。それは文化がトントンだと思わせてくれるのだ(ほんとは損してる気分になる)。
保守化する、右傾化する。これはクロマニヨン人である人間としては当然である。それを救うのが人類の文化・叡智の蓄積である。
または、自分と言説を引き離すこと。客観的になれば、正しい判断もできようもの。人間である自分から距離を置いて。
そのように独立した個人が個々に思想を選択し、それが全体になれば、いわゆる集合知として、正解に近いものを導きだすことができる。
そんなわけで、保守的、右傾向の個人は思いのほか多いはずだ。固定化した考えを、相手から押し付けられることもあるだろう。
しかし、それであっても全体としての人間が集合知として正しい選択をするであろうことを願ってもいいのだろうと思う。