老親について

最近ツイッターに書いてしまってますんでなんとも。僕のような思考をそのまま文章にするタイプはツイッターのほうが向いてるんでしょうね。140文字使い切ってばっかり。
家族とかについて考えている。3世代同居の意味とか。高齢者の介護が家族から外部化された(家族がやらなくなった)というのが社会では同意済みらしい。自分に引き付けて考えても、多分親の介護はお金で何とかするだろうな、とも思う。それでも残る家族とか。
現代日本において、夫婦にとっての親というのは難しい。答えが出ているように思うが、実は答えが出ていないようにも思う。介護は外部化されたと言っても、最後の責任というところでは子どもが取るという考えも残っていると思う。
その最後の部分が明確になれば、核家族にしても、大家族にしても、すっきりしてくると思うんだよね。親の責任を取る意味とか、メリットとか、道徳とか。
核家族であろうが大家族であろうが漠然と抱える親に対する責任と不安がある。それは例えば高度成長期の専業主婦を抱える世帯では見なくて済んだ、もしくは目を逸らしていた問題だろう。ところがそのモデルが壊れるとともに、また自らも少子化で兄弟が少ない世代が増えるとともに、親の問題というのは水面下で浮上してきているはずなのだ。つまり、新しいモデルが必要な問題、というか。
先祖供養の問題にしても、親が閉めてくれるならそれでいい。そうでなければ閉めるのは子世代の問題になる。誰かが墓を閉めないと、子孫は場所から自由にならない。そういった精神的な出自に関する後ろめたさを引きずったまま他に暮らすのか、精神的に成仏させるのかは、これからの子世代にとって問題になると思うのだ。
つまりは、宗教のような問題というか。日本人の全てがお墓参り教を信仰しているとするなら、もう少し手軽な手段を考える必要がある。どちらにしても家とか親とかが問題になる。
混乱気味だけど、そのようなことを考えています。時代は変わるけど、心の変化は遅い。