迷走する家族
- 作者: 山田昌弘
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2005/12/01
- メディア: 単行本
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家族というのはかけがえのない存在として自明視されているが、その実、それが何かと問われれば百人百様、誰にでも当てはまるものはない。特に現在は、家族像というものが、「迷走」しているという。
近代以前は家族というものは選択の対象でもないし、階層によって様々な形態があった。明治期に政府が欧米キャッチアップのために作り上げた近代家族(エセ気味)がイエ制度(家族単位の自営業を基盤とし、家族の永続を目的とする。家長=社長)であり、社会全体に通じる家族像になった。さらに戦後は近代家族として核家族(性別役割分業家族。自分たちの幸せを追求する)を作り上げた。
それらは国の意図にマッチしてとてもよく機能した。特に戦後家族は家族自身の幸せにもよく寄与したが、戦後家族が右肩上がりの成長を組み込んだモデルだったので、それらがなくなったときにうまく機能しなくなってきた。それが現在に続く迷走の始まり、と。で、結局今は新しい理想の家族像がない時代だ、と。
さて、自分について考える。
実はイエ制度はまだ成仏していない。戦後も残り、保護されてきた、と。で、精神的にも成仏していないってのは、まだ家族の永続=墓があるからかなあ。イエの墓も明治から、だそうだ。そういう宗教的な部分を何か上書き保存して新しい考えにできたらいいなあ。
さらに性別役割分担意識も同じく。こっちは「母性愛神話」「三歳児神話」等の神話を崩すことから。何にしろ常識とかモデルとか家族像とかもう存在しないってこと。迷走しながら自分たちの家族を作っていくってことだねーミクロでは。
メモ
P137「大家族を夢見る核家族」「場当たり的直系家族」
P140「戦後のイエは政府が半ば意図的に残存させ」
P153「1970年頃まで、家族問題として大きく取り上げられたのは、「嫁姑」問題である。」「イエ制度の中で育った姑は、嫁を家内労働力として扱おうとし、嫁は、専業主婦として情愛的なマイホームをめざそうとする中での対立である。」