風林火山を見ていて思ったのだけれど、ある状況で物事を判断するときに、得られる情報からどういう結論を出すかというのは正解や不正解はないのではないか、と。例えば山本勘助と飯富虎昌がお互いに違う判断を披露する場面があったが、ある情報からどのような判断をし、それを実行に移すかというのは実際その優劣がわかるのかどうか、と。
または馬場信春が「村上は討つべき」山本勘助が「村上は逃すべき」としてお互いが画策したことについて、実際にどちらが正しいというものでもないだろう。
自分に即して考える。状況判断というのはスポーツの場面で頻繁に求められる。しかし、まず得られる情報が限られること、情報を整理する時間が限られること、自分の思考能力、情報把握力、などの制約がある。そこで判断を下すことについて全ての情報を手に入れ、それらについて吟味し、最善の選択肢を選ぶことは現実的に不可能だ。その中で、例えばどういう種類の情報を重点的に収集するか、無視するか、または制約された能力に対して自分にどのようなバイアスを与えておくのか、等々が選択の前段階で必要になる。集まった情報に対して、どのような判断を下すのか、例えば得られた情報のどれを重視するか、類似の情報から連想する事例は何か(ストーリー記憶のようなもの)、によって、各人が全く違った状況判断をすることになる。
しかしそれは最初の前段階に置いて差異が生じることはわかっていることでもある。それでも状況判断の基準をそうしているということは、間違いが起こることを各人が了承しているということでもある。どの間違いなら起こしていいか、と。それは全ての情報を吟味できないが故のことである。
山本勘助と飯富虎昌の状況判断では、武田晴信山本勘助の状況判断を選択したのだけれども、その選択が果たして本当に正しかったかどうかはわからない。山本勘助と飯富虎昌の情報収集力や、情報整理力に差があったとして、インターネット*1すらない時代に山本勘助が全ての情報を収集し切ったとは思えない。必ず把握の外側の情報があり、例えば天変地異や宇宙人の襲来などは神ならぬ人間の知るところではない。
だからと言って状況判断をするなというわけでも優劣をつけるな、というわけでもない。それらは飽くまで前提としての戦略の選択と同じである。例えばアクセルロッドの実験でいう「しっぺ返し戦略(協調には協調を、裏切りには裏切りを)」のような、戦略を選ぶことである。つまり、山本勘助と飯富虎昌の例で言うなら、このような状況判断の場面では、山本勘助という戦略を信用するという取り決めに近いようなことなのだ。
大相撲でも単純な戦略が結果を左右する。当たるのか、かわすのか、押すのか、引くのか、組むのか、投げるのか。これらは自分の成長や出世にも関わりのある戦略である。ある時点で多数から非難を受ける戦略を続けていてもその先では有利に働くかも知れないし、師匠からきつく叩き込まれる戦略(引くな、叩くな、前に出ろ)が目先の一勝にとっては効果をなさなくても、その先の一勝に果たす役割が大きいとか。
山本勘助というとどうしてもキツツキ戦法を思い出すわけで、戦略というものの危うさを感じるわけですよねー。なんというか、シンプルでもいいのに、というような。

*1:インターネットが万能という意味でもないけど