「試合が終わればノーサイド」、というセリフを最近聞いた。僕自身もそのつもりだったのだ。ところがそのセリフを聞いた後の試合はノーサイドというには残酷な点差が開いた。ケチョンケチョンのパーだ。
勝者が敗者を尊敬し、称えることは必要だ。例えばスポーツの結果だけで、精神的な品位まで順位がつくわけではない。だから勝者が敗者を認めることが必要であるとともに、僕は敗者が勝者を認めることも必要であると思っていた。そんなわけで自分が敗者であるにも関わらず、勝者と同じ気持ちでいたところ、当の勝者から「敗者がなぜ勝者のつもりでいるの?」的に見られた。そうだ、つまり敗者はノーサイドではないのだ。
勝者も敗者も試合が終われば平等である、というためには、勝者の慈悲が不可欠だ。勝者が勝って驕るなら、例え敗者が平等な気分であっても平等は成立しない。勝者には勝って驕るための権力がある。ゆえに敗者が驕る勝者に対応するためには、勝者にヘコヘコする必要があるのだ。
敗者の選択は必ずヘコヘコするだけであり、勝者だけに「驕る」と「謙譲する」の2つの選択肢が得られる。試合とはこれの争奪戦であるだけなのかもしれない。
勝者と敗者には権力差が存在する。残酷な点差が、彼らの間に仲間意識を醸成するだろうか。まず逆だ。勝者と敗者が発生する限り、そこは権力の土壌となりうる。負け続ける人は権力に支配され続ける人になる。
ミスの発生もまた権力の温床である。それを攻めることによって相手を権力下に置くことができる。
平等という状態は難しい。人が二人集まるなら権力が発生する確率が高い。記憶で物事を行うことがそれにつながる。例えば仕事の分担を記憶によって行うなら、中間地点にある仕事は権力争いになる。結果、それをやったものが相手の権力に服する。それを決め事で行うならまだ権力の発生は少ないかもしれない。
例えば決め事が何もない職場では、勝者の話と同じで権力者はある仕事をやる/やらないことを選ぶことができる。とするならば彼がその仕事をするのは権力下の者への慈悲からである。権力者の優しさによって下の人間の仕事が上下する。彼らは権力者の慈悲を祈るだけであり、また慈悲に関しては感謝するだけである。この状態は権力下の者が完全に権力に支配された状態である。権力者は選択が可能で、選択をした結果、感謝を受ける可能性だけがある。
その結果、権力者は権力をさらに広げ、自分のやりたい仕事だけができるようになる。反対に被権力者は権力をさらに失い、全ての仕事が自分の仕事になる可能性がある。そして自分の仕事になる可能性があるが自分がやっていない仕事は全て慈悲の賜物であり、さらに権力者に感謝をすることになる。
とにかくあらゆる関係において権力が関係する。上で書いたように、それを防ぐには取り決めで関係を行うことだ。うー続きはまた別のときに考えよう。