環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態を読んでから、「タイムラグ」の考えが頭を支配するようになってしまった。現在の僕たちよりも未来の子供達のほうが豊かで技術的にも優れているので、環境に対する対策は彼らがやったほうがいい、っていう。では僕らが何をやるのかと言えば、環境よりももっと効果の高いものに投資することだ。例えば発展途上国に環境にかけるのと同じぐらい投資をすれば比べ物にならない人が救われる。貧困や飢餓から。
現在僕が対面する小さな問題といえば、仕事上のものだ。ちっともIT化が進まないこと、わけのわからない文書が減らないこと。それすらも将来の技術革新によって僕たちの頭の上を飛び越えて行く問題かも知れない。ちょうど前述の本ではこんな例を引用していた。

100年前、氷山は北アメリカとヨーロッパの間の旅を妨げる大きな気候上の脅威だった。(中略)50年後、ジェット機が客船を追い越した。

僕達が未来の心配をするのが滑稽なんじゃないかってこと。技術はより人々を幸せにする。心配しなくてもパソコンはあらゆるオフィスに普及した――あっという間に。今僕達が便利で他の人も利用するべきだと思っているものも、10年も経てば全ての人がアクセスできるようになっているだろう。
では僕達が日々の生活で何をすればいいのかといえば、まあ本業の技術を磨くしかないよなあっていう。ちょっとジレンマ的部分で、どうせお役所的な仕事のかなりの部分はそのうちかなりのものがオセロのように裏返ってしまうのではないか、という気がする。パソコンが普及したように。
法律が改正されることによって、僕たちの仕事は無防備に変わる。先日も土地に関する法律の変更が業務に大きな影響を及ぼすようになった。
いろいろ考える。もし今が明治維新で、これから地方の役所を作るとしたら。一から仕事を組み立てるなら、きっと今のものにはならないだろう。そんな想像をしてみるのも面白い。
ところで全然話を変えるけど、今日ニセコ町のファイリング導入事例を見て、「文書は一つ」ってのに今さら感銘を受けた。わかっていたことだけど、旗印をこれにすればいいのかっていう。実は書庫にしまわれる書類の、課による重複をどうしたもんかと考えていたのだけれど、この「文書は一つ」を軸に回せばある程度そういうものを強力に解消できるのではないか、と。
今僕は職場内のいらない書類を捨てようとしていて、他の係員に判断を仰いでいるのだけれど、必要か必要でないかでしか答えてもらっていない。そうではなくて、オリジナルなのかオリジナルでないのか、他の方法で再生可能なのかそうでないのか。それだけで答えになる場合があります。
文書は一つを実行するためには文書管理の担当の課に動いてもらわなければならない。そろそろ全庁的な文書管理目録のようなものを公開してもらえんかな。生データでは持ってるんだから・・・。