常々思うのだが、僕はわかるということについて他人と違う感覚を持っているのではないか。

今日仕事中に、空中に浮くような話をされて、まるで理解できなかった。僕もアホじゃないと思うんで、これは感覚の違いだと思う。多分、相手も僕がなぜこんなに理解できないかわからないんじゃなかろうか。

空中に浮かんだ話ってのがほんと苦手です。僕はワーキングメモリが弱いので、繋がりの分からない単語が2回ぐらい繋がると、そこから後ろがまるで意味がわからなくなる。説明をされるのなら、活字か実例でして欲しいと思うんです。会話だけでは本当に理解できない。

こういう感覚がどうも相手にはわからないのじゃないか。会話だけで理解できる人も世の中にはいるんだよね。「要は」とか「簡単に言うと」だけで説明が伝わる人。僕はまとめてもらっても端折ってもらってもわかりません。

わからない時は仕事を始めるに限ります。そうしないとどこがわからないかすらわからない。というわけで、仕事をしてたらさらにわからなくなったので作業しながら電話で確認。うんにゃかんにゃ説明を受けててさらに混乱した時に、何かの弾みでピースがはまって僕はこう叫んだ。


エウレーカ!


それは嘘だけど、頭に薄くは浮かんだかも知んない。それぐらいわかった。こうなると話は簡単だ。逆に、こうならないと話は非常に難しい。わからない、という状態は僕にとってかなり負荷のかかるもので、とても仕事が進められない。

僕のこの「わからなさ」を、説明をしてくれる側に知ってもらいたいのだけれど、まるで伝わらない。大抵僕は説明者が思うよりももっと根本的なところがわからないんです。「やりかた」ではなくて、「やる根拠」もっと言うと、「やる必要性」です。もう底の底の話。車の運転方法を習うときに、なぜ車が左側通行なのかわからないと運転ができない、ぐらいの。ほんとにそこで止まる。で、勝手に「わかった!」とか叫んで裸で風呂から飛び出る。

やっぱ理解得られないよなあ・・・。ほんと切実にわかんないのがつらいんすから。切れるかと思った。