さて、木端微塵の余韻の中、暇だし暑かったので本屋に行ってきました。
自転車での帰路に思ったのですが、何でこんなに家から本屋が遠いのか(まあ自転車で15分なんですけどね)と思ったら、本屋を出てすぐのところから延々と田園が続いてるわけ。ああ、家が遠いのは農地のせいなんだ、と25年生きてきてはじめて思い至ったわけですね。
もちろん農地の存在を否定しません。それどころか大変に意味のあるもので、もっと増えるべきものだとは思っています。この景色に郷愁を感じるのもいいし、実際に和むとも思います。
しかし、だ。そんなの俺にとって何の関係もないじゃないか。と遅ればせながら気付いたぜ。
うちは何代か前からすでに農家ではない。農地は持っているが現在は貸しているし、その前(つっても結構前かなあ)もそこまでやってなかっただろう。何代か前には地元の人向けの商売?みたいなのもやってたらしいし、その前にはこの辺は瓦の産地だったので瓦職人として土着していたのだろう。
だけど待てよ。祖父は元銀行員、父は元メーカー社員、私しがない公務員。すでにこんな田畑の真ん中に住む意味ないじゃない。ああた、酷いんですよ。ほんと田んぼの真ん中なんですから。
今気付いた。うちの一家やばい。全然意味ない。ここに住んでる意味ない。職場も近くない。僕たちの暮らしを不便にしているのは、僕たちが住むのに直接関係ない田畑だった!日本でこの事実に気付いた田舎暮らしの会社員がどれほどいただろう?
どっかでこの感覚を狂わしているのは自動車の存在だろう。田舎では田んぼの真ん中に真直ぐな道があって、田んぼのこっちと向こうを繋いでいる。そこを一般の人は車でぶぶうとひとっとびするわけだが、自転車でへーこら漕いでいて思った。こりゃ、ガソリンの無駄遣いだぞ、と。
農家の人が軽トラで田畑へ来て、作業して帰るのはいいんですよ。でも、そこを会社員の人が共有してなが〜い田んぼ道をぶうぶう走るのって非効率じゃないっすかね。何でもっといい場所に住まないの?
これこそが「保守」というもので、保守的ということは非効率の上に効率を重ねることだと思った。今の例で言うと元農家が車で田んぼ道を走ること。で、反対にリベラルというのは都会に引っ越しちゃうことだと思うな。どっちが経済的に有利かわかんないけど、持ち家で敷地も広い僕の家では、頭が悪いので車が4台あります。家賃と比べてどうだろうね。一概に比較できるかわからないけど。
だいたい田舎では車がないと生活できないっていうけど、それって農地のせいだし、そういう人は別に田舎に住まなくてもいいんじゃん。
で、さらにおかしな例だと、都会では家が買えないから、親の農地を農地転用かけて宅地にし、なんか変なとこに家を建てる例。根本的に間違ってる気がする。まあ宅地の中ならいいけどね。