超都会行きてー。

僕だけかもしれない。しかし僕の家の近所には、財布を使えるような場所がほとんどないのだ。而して僕はあまり貨幣経済っぽくない人になった。
幼少期。休日に行くのは近所の自動販売機。思いっきり貨幣経済を誤解していた僕は10円玉を4枚投入しお釣りに変換する。そうして30円の価値があるというデマに踊らされ、ギザ10の出現に一喜一憂するのであった。そこでジュースを買ったことは未だにない。
小遣いをあまり貰わなかった。そして駄菓子屋は歩いていくには遠すぎた。幼少期の僕は貨幣経済とは無縁に過ごし、戸棚の硬くて歯が折れるような炒り豆を無心に齧る。2個も3個もいけやしねえ。
今でも喫茶店に入る習慣がない。自販機でジュースを買う習慣がない。僕は都会で、自分が都会人でないことを、その2つの習慣のなさによって思い知った。席や時間を買うという発想、一息入れる、ハブ・ア・キットカット、そんな洗練されたものはいまいちわからない。
そんな僕でも都会に憧れる。いや、そんな僕だからこそ。神戸に住んでも馴染めなかったし、外食も外泊もしていない。ただ見ることだけしかできなかった都会だけど、そこで見たのは僕の知らないことだ。
浜松にスタバができた、マツキヨができた、近所にすき屋ができた。表層的なことはこっちでも変わっていくけど、きっと使い方は違っているんだ。車ですき屋に行ってもそれは都会の用ではない。忙しい朝の駅前。そんな気配は微塵もない。のんびりとしている。せっかちなのは単なる性格だけのこと。
得られるものと得られないものが違う。田舎に生まれ育っても、都会で真っ赤に染められてくる人もいる。僕は幸か不幸かそうではなかった。
もう一度、都会に出ても、何も変わらないだろう。しかし僕は田舎過ぎる。外的要因なしに、自らが都会になることなどないし、要するにもうちょっとぐらい都会化してもいいんじゃない?と思っているわけです。