昨日のに追加というか、改めて思うんだけど、世間の雰囲気って、身内を信用して他人を信用しない雰囲気あるじゃん。ちょうど今日のニュースでも事件が起きた園の子達を親が付き添って送迎するみたいなシーンが出てたけど、これが行き過ぎるとおかしいんじゃないかな。基本的に犯罪被害者のうちの高い確率が、知り合いからやられてる、と思った*1。真に警戒すべきなのは他人ではなくて身内。集団送迎で身内に近い園児の親を使うよりは、赤の他人である世間の目の中で園児を登下校させたほうが安全なのではないか。で、今回のニュース映像だと逆にどんどん身内で守るみたいな雰囲気になっていて、ちょっと怖い。あれが怖い、これが怖いで最終的に親子だけで生活していたらおかしくなりそうですね。
基本的に、他人は安全だ。赤の他人は彼らから見た他人に注意を払わない。この中で特殊な人だけが、それを他人と思わない行動に出るのだろうが、その確率は特殊な人がいる確率と、さらにその特殊な人に見初められる確率を掛け合わせたもので、非常に低くなるだろう。
大気汚染は人を殺さない。タバコの煙は人を殺す。農薬は人を殺さない。肥満は人を殺す。
いかにも危険そうな工場の煙も、最短距離では自分に届かない。いかにも危険な農薬を、普通の人はカレーに入れない。しかし、タバコの煙は(まだメカニズムは解明されているとは言えないかもしれないが)統計的に死亡率を上げるだろう。肥満になったものは、そうでないものより足を踏み外しやすい。要は自分に近いものほど危ないのだが、その危険性を人は見ることができないのだ。
ショッキングであることだけが事件ではない。タバコをガバガバ吸い酒を浴びるほど飲み暴走運転をし無茶に無茶を重ねた男が死ぬのも事件だ。死ぬのが当然だ、と思ったとしても、死ぬためには背景があるのだ。その個々の行為が安全だったと言うわけではない。当然でも危険だったのだ。
理不尽な刃に倒れることも死、当然の末路が待っているのも死。理不尽を怖れる余り、当然を怖れないというのはどうだろう。夫婦喧嘩は当然起こりうる。友達同士の不和も当然起こりうる。当然だから気にしなくてもいいのだろうか?当然だからこそ気にしないと危険なのではなかろうか。
他人を信用し、身内を信用しない。これは、親しき仲にも礼儀ありと言う言葉の中にも含まれていることなのではないかと思う。世界はちっとも危なくなっていないが、身内は昔から変わらず危険なのだ。※ソースは探していません。

*1:ソースは忘れた