さきほどゴミ拾い運動に行って参りました。一応町の職員だからね。行ったわけなんですけどもね。
まあそこに住んでないけどね。どうでもいいっちゃあどうでもいいわけで。別に町からゴミが消えることが好きなわけでもないし、本気でそのイデオロギーを信奉してるわけじゃないけど、まあ予定も入ってないし、僕の行動原理である「義理」で行っただけなんですけども。
チャリンコで颯爽と集合場所に乗り込んだわけですが、「お前よくチャリで来たな」と言われ、周りを見渡すと、隙間狭しの車の群。おいおいやんなっちゃうね。
んで手分けして田んぼの中のゴミを拾うわけですけども、最後にチラッと見たら結局軽トラ1台分ぐらいしかゴミは集まってないのな。なんなんだろう、と。
ゴミ拾ってても疑問は一杯あるわけですよ。すぐそばにジャスコがあって、タバコの包装ファイル、飴、ガムの包み紙、そういったのが散乱してるんだけど、今拾ったってどうにもなる問題じゃないし。じゃあもうすぐ凧揚げ大会があるからやってんの?となればそれがなきゃ他の場所はしなくていいの?とかもっと言えばちゃちゃっと見渡して「凧揚げでの来客の心象に影響なし」と判断してゴミを拾わない、って手もあるんだもの。(包み紙などは小さいので気にならないと言えば気にならない程度)
だいたい僕は缶もビンもペットボトルもガムも飴もタバコもコンビニもジャスコも使わない人なので、自分が町を汚すということを考えたこともない。そういうものを使う人の意識が低すぎる(タバコのポイ捨て、包装紙のポイ捨てなど)ことの尻拭いを、僕のような関係のない人間がしなきゃいけないっていうシステムは間違ってるんじゃないか、と。だいたいが職場の人だってタバコはポイ捨てしていいと思ってんだから、話になんないすよね。
捨てた人が拾わないシステムなら、僕はほっときゃいいと思ってるんですけどね。
だいたいがこういうゴミ拾いのシステムが、投入した資源に対して、本当にそれ以上の効果が出ているか、という問題ですよ。さっきも言ったように、僕以外の全ての人(多分町民じゃないのは僕だけだから、多少の違いはあれ、僕よりそんなに遠いところより来ているわけではない)が車で来て車で帰るような状態で、じゃあその分のガソリンという資源は、ゴミ拾いと比べて環境に対する負荷はどのぐらいだろう、と。たかだか30分程度で軽トラも満杯にならない程度、それならそれはゴミ拾いという視点からではなく、「凧揚げ大会があるから」という視点で見るしかない。
そうなりゃ好きな人が客人を迎えたり、自分がやりやすいように適当にやってくれよ、となるわけで「小さな親切運動」(大きなお世話だけど)と銘打って職員会(うちの互助会)を含めた活動にしなければよい。
割れ窓効果*1も働きそうにない、だだっ広い田園ですよ。だとするとそこに集中的に資源を投入する意味なんてあるのかね。もっと効果的な方法があればそれをやるべきだし、なければやらんでもいいというのが僕の見解。
やりたくない、って言いたいだけかよ。
(帰る途中にみちみち大き目のゴミを発見したりしたんだけど、結局それはずっと永劫ほっておかれる運命なんだよなあ。誰かが片付けることなんて絶対にない。なんでそれ(片付けるか片付けないか)を誰かが決めて、その基準が特に意味ないなんてことになるんだろうね。まあいいけど。つうかもうちっとマシな生活をみんながすればいいのに、と思う。タバコも清涼飲料水もやる意味がちーともわからんね。タバコ屋は吸殻を捨てることの環境負荷がいくら、とか計算して欲しい。そうすりゃ対処すべきかすべきでないかがわかるじゃん。わからんことやったってどうでもいいよ。)

*1:窓が割れてるから荒らしても何してもいい、ってならないように、少しのことでも修繕しキレイにすると荒らされることも減るっていう効果