さっきテレビ見てたら、ノエビアのCMで「わたしらしさって、年齢とともに作られるものだと思う」というようなことを言っていたので、これだ!と思ってしまった。
まあCMだから先走って当然であり見当違いなこと言ってるかもしれんのでこっちも早とちりするのはよくない。しかし、この「わたしらしさ」っていうものは自分で作っていくものだ、というメッセージが、時代に共通するものだととりあえず仮定して考えてみる。
自分で作っていくっていうことは、表現したい「わたしらしさ」ってのが各人の望みとしてあるってことだろう。そして普段のコミュニケーション場面ではその結果持ちえた「わたし」を使うのだろう。ところが僕にはそれがどうも希薄なのだ。
最近どうもコミュニケーションのやりにくさを感じている。それはどうも僕の中の個性、つまり、「わたしらしさ」が喪失したからだと思うのだ。僕は個性というものは孤独に自分の考えや道を貫くことでも生まれると思っていた。ところがノエビアに従うのなら、それでは生まれないのである。
「わたしらしさ」は年齢とともに「作る*1」もの、ということは勝手に生まれるものではないのである。つまりはプレゼンテーションだ。
年齢を重ねるごとに、名刺のような「わたし」を、外見に現れるように「作って」いくのだ。それは外に押し出せる趣味でもいいだろうし*2、簡単に自己紹介できる一連の笑い話でもいいのかもしれない。それをやらない限り、勝手に「わたしらしさ」は生まれてはこないものらしい。
ひるがえって考えてみるに、僕は「わたしらしさ」作りを放棄している。他人と話していても、「自分だからこそできる」という話をした覚えがない。
例えば趣味にしたって、本来は人に小話できるようなものでなければならないのだ。僕のように新書を読むのが好きで、中日の試合を見るのが好き、というようなのは個性に値しない。なぜなら市場が狭いからだ。他人に開示できてこそ、はじめて「わたしらしさ」作りに成功したといえるのだ。
僕はこの発見にびっくりした。なるほど、年々引き出しが少なくなるわけだ。多数が選択すべき趣味や話題を選ばないということは、「わたしらしさ」に繋がらず、それゆえに他人とのコミュニケーションもはかりにくい。
ノエビア、深ぇ。
あと僕は他人と話をする気がまた減りました。

*1:CM中では作られるだったが、明らかに化粧の話である

*2:そのCMでは女優がカメラのようなものを持っていた気がする