勝手に絶望する若者たち (幻冬舎新書)

勝手に絶望する若者たち (幻冬舎新書)

読後感は悪い。とりあえず就職氷河期世代のものは買ったり読んだりしたいのですが、読んでみてちょっとね。
僕が思うのはとにかく就職氷河期世代が雇用の調整弁に使われたという思いであり、実際に自分が体験したあの気持ち悪い空気だけです。その気持ち悪い空気に勝手に絶望して就職活動しなかったわけだけれども。
あの当時就職していった人たちはスーパーマンかスマートな詐欺師に見えた。僕は自分が就職活動をするということで一体どれだけの自尊心を捨てなければならないかと思った。実際に就職活動を進めた同世代の人から見れば、僕が損をすることは当然だと思うだろう。同世代でもその断絶もあった。
あの当時の人材というのは、企業の目がおかしいのでなければ相当素晴らしい人材を取れたはずだ。僕たちのような気が弱くて少しでも迷ったような人材は、あらゆるところで選別されて落ちていったからだ。そこで残ったのが前述スーパーマンかスマートな詐欺師なのだけれど、果たしてそんなに有能な人材を必要としていたのか。
僕は今勝手に思うのだけれども、企業はその人材を使えていないのではないか。あの当時取れた人材というのはものすげー有能だったはずなので、採用した人間の目が確かであるならば、辞めるはずがないのである。でも「辞めてる」、というのは本書の弁。
特殊な状況下で起こった事例について、一般化をされてもなあ、というのが感想。大学さえ出れば一般的な会社に入れるだろうなあっていう小学校以来の考えが打ち砕かれるような環境にあって、一般的な会社に入るためには何もかもを売るかどっからどう見ても優秀である(人付き合いとか特に大事)必要がある、という認識に変わって、その後価値観が他の世代と一緒のままでしょうか?
個人として立ち直ることや挑戦することが必要でしょうが、この世代が世代として立ち直るには一度かなり大きな世代としての「安心」をすることが必要だと思うのです。それは社会がなすべきことで、個人個人のレベルでは難しいと思う(ある個人は立ち直りうるし、ある個人は違うかもしれない)。この世代は自分の能力と別のところで未だに就職に関しては難しいところがある。そこがフォローされてこそ安心でき、世代としての新たな価値観も持ち得よう。
個人に生じた変化として、僕に起こったことはこの日記です。起こりえた自分、ということで就職がうまくいった自分を想像すると、今でもゲームと漫画に明け暮れていたと思います。こんなにも色々なことが怖くなってある程度の額の投資をしていたり社会について考えたりしているのは、就職氷河期での価値観の崩壊が主因の気がします。
それから後も公務員試験というだいぶ緩いけどちょっとだけ門が狭い試験も経験しているし。
それにまだまだ絶望をする必要がない世界が到来しただなんて思えないぜ。まあ個人的に、長期的には楽観ですけど。
あと「朝日」という単語を見るだけで拒否反応が出るのは何でしょう。中日育ちと日経を少々なせいでしょうか。