さらに考える。石原産業が悪いのか、それともリサイクルというのがパンドラの箱なのか。開けてしまったものに災厄が降りかかる箱なのか。中に希望はあるのか。
ご丁寧にごみゼロ推進課なるものがある市町村もあります。そもそもこういう言い方がおかしいのですが、ごみを集める市町村がごみゼロを標榜するなんて嘘です。人間が活動する限り、ごみはゼロになりません。いきなり現実把握をスベっています。
リサイクルという発想は、多分ごみゼロの上にあるでしょう、いや、逆か。ごみをゼロにできるという発想の後ろにはリサイクルというパンドラボックスが控えていると言っていい。リサイクルは謎の箱です。そこに投げ込めば誰も実態がわからない。今回のもそのケースでしょう。リサイクルが可能だろうと箱を開けた企業でも、それが無理となれば再びお釣りをつけて箱を閉めるでしょう。フェロシルトとはそういうものではなかったか?
一般ごみ。混ぜればごみ、分ければ資源と言いますが、一度資源になった「ごみ」がリサイクルする過程で出るごみは産廃です。市町村としてのごみゼロは、一般ごみが産業廃棄物に変わることでも達成されるのです。しかしそれは単なる付け替えに過ぎません。石原産業と変わるところではありません。
リサイクルはできないのです。少なくとも魔法ではない。今まで使えなかったものが技術開発によって急に材料になるなんて虫が良すぎるのではないでしょうか。昔から鉄は比較的リサイクルされてきたし、それはある程度効率的*1でもあった。使えるものは使っていたのだ。
リサイクルとは現代の錬金術かも知れない。錬金術の過程で副次的に有用なもの*2は生まれたが、ついぞ金はできなかった。リサイクルもそういう月を追うような技術ではないのか?基本は無から有を生むということなのだから。
軽々に触れるものではない。果たしてどれだけの企業が、一度開けたパンドラの箱を閉めたのだろう。そしてそれはどのような精神風土の元で行われたのだろう。気になるところですね。

*1:しかし、基本は大→小の流れである。橋脚などの巨大なものからそれよりは小さいものに使用される、等

*2:「化学の発展」等もそうだろうね