Weblogになってから「文章」は書かれなくなった?
http://artifact-jp.com/mt/archives/200412/weblogtext.html

色々考えたけども、他人の日記やブログを読まなくなって久しい僕が何をかいわんや、ではあるのだけれど。
歴史から遡る。テキストサイトコミュニティが小から大になっていく過程で僕らはWEBに日記をアップしていた。それはコミュニティがまだ生きている時で、中心が見えた時代だった。隣の円の中心も見えたし交差するところもあった。可視的な大きさであった。昔、1人の人間が把握できるのは100人の群ぐらいまでだという話を聞いたことがある。僕たちは一人一人がそれぐらいの円の中心にいたのではないか。
銀河系は膨張する。多分「系」というのは膨張するのだ。日記系、テキスト系、痛い系。合従連衡そして今は件のブログというわけだ。
書く理由はキリがない。「注目を集めたい」「心情を吐露したい」「才能を証明したい」「チヤホヤされたい」それらのうちのどれを諦めるかで現在の形が変わるのだ。前回の日記(http://d.hatena.ne.jp/totuka/20031122#1069510170)で未だ本サイトを諦め切れなかった理由は「注目を集めたい」「チヤホヤされたい」からだったが、ようやくそれに踏ん切りをつけられたということだろう。
さて、ブログである。僕の個人的な感覚では、今の形態になって、ようやく文章が自分の元に帰ってきたという気がするのだ。テキストサイトでは純粋に自分のための文章と言うのはありえなかった。実社会でもつけている「ペルソナ」をつけずに舞台に立つことなどありえなかったのだ。ところがブログの世界では「データベース」という用途があるために、明らかに自分向けの文章であっても存在することができる。
これを使い分けている(いた)人がどれだけいるのかはわからないが、自分用と他人用の間でうろたえていた人も多いのではないか。世界が膨張して離れていく(テキスト系中心で生まれる宇宙はまだ新しく互いに近付いているが、すでに古くなってしまった辺境では別離に加速がかかっている)のと、自分の中で他人と距離を置きたくなったのとが一致して僕は人と交流をあまり持たない今の形に行きついた。つまりここは個人的なんですよ文章が。

エンターテイメント性の高い文章を書くにはかなりの気合いが必要ですから、どうしてもゆるい方向に流れやすいのでしょう。

とありますが、エンターテイメント性の高い文章を書くのに必要なのは、他者への志向だと僕は思う。目的が自分に向いてしまうと、気合いがあってもエンターテイメントというペルソナはつけにくい。
体質なんですけどね。日常の中で何を探すか、っていう。本サイトで毎日日記を書いていたときは全てのことを面白いこと(他人に紹介できるような形に自分の中で消化して)を探す視点で見てましたけども、現在は何が人生の役に立つか、という視点でだけ物を見てますから。ちっとも面白い事件は起きなくなりました。
僕は孤立する道を選んだ(追い込まれた?)んですけども、そればかりが道ではないので一般化することはもちろんできない。空気の体験者としての一言のみ。
テキストサイトとブログの距離感の違いは感じるところではあるなあ。テキストサイトは臭いだけを読者に届けるんだけど、ブログは視覚だけを読者に届ける。テキストサイトには具体的な筆者の姿は浮かんでこないんだけど、おぼろげな姿は濃厚に感じられる。ブログ作者ははっきりと見えるんだけど、総合的にどんな人なのかがわからない。
生活を書くか、視点を書くかの違いかな。
実はこっちでは視点しか書いてないような気がするのです。


ふと思ったけどこれは「ブログになってからどんどん地下に潜っていく人の方の視点」ってことでいいのかしら。ブログになると接触って増えるものなの?