田舎のおっさんが泣いている話

正月に帰省。私の場合、実家から車で10分ぐらいのところに妻の両親と同居しているので、実家に帰ると言っても生活圏がほとんど変わらず、あまり実感がない。しかも近いので結婚してから一度も実家に泊まったことがない(必要がない)。さらに、祖父母も既に他界しているので、実家に集まる親戚は父の弟夫婦とその子夫婦とその子、というほとんど他人みたいになってくるのでヨソヨソしさが年々上がっているという場面に立ち会っている。

それはそれとして。

田舎の人間は排他的で閉鎖的で古くてデリカシーがない、というステレオタイプなイメージが、ネット界隈では一つの言説ではなく、数多飛び交っている。それは一つの真実なのだ。田舎で生まれた人間のうち、「排他的で閉鎖的で古くてデリカシーがな」くない人間は、既に全員東京に飛び立ってしまったからだ。残った人間は、排他的で閉鎖的で古くてデリカシーがない人間に決まっている。

ただ、田舎はどんどん変わっている。

37歳の僕の物心ついたときのお正月は、餅つき機で餅をつき、それを親戚が取りに来る大晦日、そして曾祖母がやたらとぼた餅を作る記憶から始まる。実家の裏には杵と臼もあり、物心つく前はそれで餅をついていたのだろうし、親戚もその餅がなければ正月になった気がしなかったのだろう。祖父の兄弟家族も正月には実家に集まり、仏壇の横にいる祖父を中心とした酒と煙草の宴席があり、お節のようなものを食べた気がする。そして正月には親戚一同で近くの有名な団子を売っている山に初詣に行った。実家に泊まる親戚もかなりいたと記憶している。

20歳ぐらいの時に祖父が亡くなり、酒と煙草まみれの人間が1人減った。というか、実家で煙草を吸う人がいなくなり、多分灰皿の用意とかも疎かになっていく。いつからか、煙草を吸う人は外で吸うような感じになっていく。そして社会も分煙や室内禁煙になっていく。ちなみに、私の職場は現在敷地内禁煙。公用車も禁煙。飲み会とかも宴席では吸わないのがスタンダードになってきている(席を外して吸う)。そしてこの頃にはいとこ連中が大学に行ったりなんだかんだで親密さも薄れ、初詣には各家族で行くようになった。この頃は誰も実家には泊まらない。

30歳ぐらいで祖母が亡くなってからは、正月の集まりの根拠もなくなった。ほぼ惰性で、「◯◯家新年会」という、3時間ほどの飲み会になった。飲み会だけど、今では飲酒運転する人もいないので、酒もほとんど開かない。実を言うと、孫マウンティング大会のようになっているかもしれないがそれはまた別の話。この新年会、元教員の母が仕切るので、いかにも先生の飲み会風の、次第があるかのようなものになってしまい(レクリエーションに次ぐレクリエーション)、私は辛い(空気…)。

田舎の変化はモータリゼーションに始まる。1970年ぐらい、ということだろうか。モータリゼーションとともに各地に道路が作られ、繋がれた。私の地方でも、祖父の時代に県道ができ、駅まで車で15分ぐらいになった(それまでにも軽便鉄道はあったが)。1980年代には既に後に平成の大合併政令市となる市の中心地(実家からは車で1時間程度)に複数の百貨店があり、洒落たものも買うことができた。スーパーも普通にあり、都会でも流通するものが買えるようになっていた。正直なところ、僕らの世代で田舎生まれで困ったという記憶はあまりない。

このブログで数年前に書いていたように、このあたりではイオンモールららぽーとが相次いで開業した。最近ではコストコができたことが話題となった。スターバックスは県内に30店舗あるようだ。都会にとっては当たり前の物が、さらに当たり前にあるという状態だ。

さらに、車関係の製造業が強いので、ブルーカラー的なホワイトカラーがかなりいる。作業着を着ているけども、絶対に汚さない一群だ。実を言うと私の父もそういう系。また、日本全国津々浦々と同じように、公務員もいれば行員もいる。

少しまとめる。田舎は清潔になってきた。煙草の煙は減り、土で汚れることもなく(道はアスファルトだし農家は減るし)、服だってブランド物からユニクロまで揃い、清潔な着こなしが流行ってきた。全ての家庭が「ららぽーと(お歳暮や晩のおかずを買うところでもある)を歩ける服」を持っている。ハイソだけが百貨店に行くわけではない。加えて、言動も清潔になってきている。ご存知中学時代は中学も荒れていましたので、竹刀を持った教員や、後に逮捕されたという噂の教員もいた。しかし、今はさすがに竹刀を持った教員の話は聞かないし、生徒も荒れていない。

デリカシーの問題も大分緩和されてきた。テレビもインターネットもない世の中ではないので、誰しもがマスの情報に触れています。マスの情報は遅れ気味でも、さすがに暴力はいけません(お題目じゃなく、ほんとにダメだよ!)って言っています。田舎のおっさんも聞いています。

そして田舎のおっさんは、今度は権力もありません。うちの父は長男ですが、弟に対しては父としての権力は持ちえません。何かを継いだわけではないからです。農業を継承してもお金になりませんし、商売を継承する家もマレです。誰もが右肩上がりに昇格する時代ではないので、20年近く前にうちの父はリストラされました。仕事で昇格していくのは今後ますます狭き門となるでしょう。威張るにしても、何も伴っていないので、空元気みたいなおっさんしかいないはずなのです。

田舎のおっさんは、カスカスのハリボテです。そして37歳の私は既に田舎のおっさんになっていて、公務員なので多分ずっと田舎にいるのだろうな、と思っています。

当地では人口も現時点では減っていないし、田舎だけども住めるところです。そして日本全国、そういうところはそこそこあると思うのですね。他地域と交流し、人の移動もあり、転勤で来る人も去る人もいる。田舎は排他的で閉鎖的で古くてデリカシーがないとしてしまうと、果たして日本にどれだけの都会が残るのか、と。個人的に田舎と都会を分けるのが、コンビニ行くのに車に乗るのが田舎、歩いて行くのが都会、と思っているのですが、3大都市圏と福岡・仙台・札幌・広島ぐらいしか残らないではないか、と。

静岡!

静岡どうなってしまうの!

政令市があっても間違いなく田舎と言える静岡。県内両政令市の最北端は、なかなか、なかなかの田舎だと思います。

田舎のおっさん、田舎に居続けるおっさんである私は、田舎にいるデリカシーのない嫌いなおっさんを思って泣き、おっさんとして嫌われている自分を思って泣きます(泣いてはいませんが)。宿命のようなものですね。