コンパクトシティで行こう

国交省さんが県さん経由で押しに押している政策と言えばコンパクトシティなわけですが、果たしてコンパクトシティって成立するんですかね。例えばですが、シティ内にステイションがなければどうするん。どこに集めるん。ステイションがない市町村は平成の合併の前は山ほどあったし、例え合併してもステイションのない地区を切って捨てるのは非常にデリケートな問題だよ。政治問題だよ。
まあ、駅がなくても街の中心部ってのは一応存在するわけだけど、何も集められない。既にコンパクトってこともあるだろうし、都市に何が必要かってのはわからん問題です。
駅前再開発ビルで、成功の事例はないっつーぐらいなんですが、駅前の低利用個人商店的なものを、高利用ってのか立体利用ってのかするしかないわけで。駅前っつー地価の高いところを触ってある程度の大きさの建物を建てるという以外に、中心部に重心をかける方法はない気が。
それって、行政がー巨大なものを作っていますよ、という話で、「失敗」の二字が浮かんで消えます。今いや昔から投資は民間が、っちゅーのが餅は餅屋的な話なんですけど、ウマい話じゃないと乗ってはいかんよね。そんな中、コンパクトシティって旗を振って行政に何ができるんだろう、と。
街中は正直言ってパンパンです。空き地を買うのも高いし狭い。夢のある集客力のある施設は空き地が安くて広い郊外しかない。イオンモールは郊外しかないんですよ。病院も、福祉施設も。
経済的に足枷のある街中に、魅力的な施設のできようはずがない。人口流出著しい我が県の我が市ですから、転入転出時にアンケートをしてるみたいですが、皆さんの求めるものは買い物に便利な立地のようですよ。コンパクトシティが転出を止め、転入を促してくれるわけじゃないみたい。こりゃあスマートICにアウトレットモールしかないねえ。
それが近視眼的だとして、遠くを見つめる目はどういう目であるべき?皆老いて若い人は出てっちまうんだから全て縮小すべきだよねっつー目?人口減らさないようコンパクトシティで駅前に再開発マンション建てよう、でも他に打つ手ないなあっつー目?
街中に手ー突っ込むのは権利関係やばいよねー、都市は拡大してないと中心もでかくならん。中心に集まるのは東京から線路と駅をストローにしてチューって吸われてるだけじゃんという気もしたり。

小学校は歩いてこない

だーから歩いていくんだね。その結果、1学年一桁というような人数の小学校が増えている。それは暴論、だとしても。
(公立)小学校の通学、ってのは基本は歩きなので、小学生の歩みに自然と制限を受ける。離島や限界集落なら隣の小学校がめちゃめちゃ遠いってこともあるけど、現代の学年一桁校はそうでもない。彼らが中学生なら、ユーちゃりんこ乗っちゃいなよで済むところが、そういう生徒数減の小学校になってきている。
少子化。うんうんわかるよそーなの少子化のせいなの。で?現実には生徒増の小学校だってあるんだからそういうの参考にしたら?うーん、完全に調べてるわけじゃないけど、生徒増のとこは新規に宅地開発されてるとこなんだよなあ。高齢化と言えば実は住宅地も高齢化するのであって、同時期に宅地開発されたり分譲されたりしたとこは、住民も同時に老いていてしかも使い勝手の面から新陳代謝も難しい、と。生徒が減のところは実際ただ新規宅地開発が少ないってだけのところで、別にものすげー人口流出が起こったり産業が崩落してるようなとこじゃなく、優良農地ばっかりで新規宅地開発が現実的に難しいってとこもそうなのね。田舎だからって跡継ぎが全戸にいるわけじゃなく、晩婚非婚少子化で普通に子は減ります。世帯数が同じでも。さらに家業を継ぐ人も減ってるわけで、家に入る人も少ない。
小学校の周りにガガガっと宅地開発されたところでも、親と同居する世帯が少なければ同じことです。今度は学区内でもより学校から遠いところが開発されねばなりませんが、小学校から遠いのはデメリットです。どちらにせよ、そういうところも増えていますが。
子を持つ親が、どこに家を持つか決めようとしたときに、現代は非常に難しいのではないか。そうしてこの段になっても、小学校は歩いてきてくれないのだ。
買物難民を救う移動販売車、小学校もそれが解決策なんでしょうかねえ。

静岡県から人口が大流出

何と申しましょう。何から始めましょう。とにもかくにも静岡県から人口が大流出しておりまして、北海道に次ぐ全国第2位の勢いで人口が減少しているみたいです。
静岡県と言えば神奈川と愛知に挟まれ、東海道新幹線だの東名だのが走り、愛知から連続したような自動車産業が盛んな土地柄であり、人口の流出なんてのは考えたことがあまりありませんでした。しかしまあよくよく考えてみると空洞化の見本みたいなところではあります。
新幹線「のぞみ」は静岡県に停車しないし、リニアはかするだけだし、東名とか新幹線とか静岡県長過ぎとかよく言われるし、どうも横浜のすぐ隣に名古屋があって欲しいような空気は薄々感じてた。そこへ持ってきて実際のところリーマン・ショックからこっち、製造業的には活況というところまで戻らず、具体的に言うと、大量に帰国したブラジル人は結局戻ってきていないのよね。ブラジル人に限らず、流動性の高かった派遣労働者の方々と言いますか。
製造業の誘引力が薄れ、そしてやっぱり地震が尾を引いている。地震が起こした余波と言いますか、海沿いの退廃ムードははっきりと警告に変わり、工場も跡取りも海沿いから内陸に行きたがっている。海沿いは既に全滅だ。
海沿いと言えば原発も海沿いであり、結局原発も海沿いのほうが近いってことなのよね。県を代表するスズキさんが静岡県一本足打法に危険を感じ、分散を図っている。東海大震災を恐れて、ということは、以前原発近くに作った大工場も、大分規模を縮小したってことでして。
まあつらつらそういう状況がありまして。
静岡県という地方公共団体も本腰を入れるようでありますよ。解決策的な小冊子を職場で眺めたけれども、「コンパクトシティ」が静岡県のみならず寂れる地方どこでもの全国的な施策なようです。
うーん。
わかるようなわからんような。東京ってのは全てが都会なのだから、都市機能をコンパクトに、つーのはわかるような気がするんです。静岡県は退潮著しい海沿いなんて特に車によってユニバーサルサービスに乗せてたんだから、コンパクトシティってのは海沿いを活用しないってことに感じるんだな。何というか、駅前に都市機能を集約させたら、海沿いの人たちが内陸に集まって終わり、ってだけのような。その過程で他地域への流出も進みそうなイメージがある。とにかくもう海沿いに人が入ってくることはない、というか海沿いは行政的にもあんまり入れさせたくないだろうし。
内陸に人が集まるのは不可避だと思うのです、ここに至っては。津波というのはきっかけであって、とうの昔に静岡県の海沿いはオワコンだった。何より静岡県の稲作というのがあんまり強いわけじゃない。業として成り立つ状況ではほとんどない。そして農家でなければ海沿いに住む必要はないのであって(漁師ってのはもうもっと前からあまりいない)、非農家の人たちは先祖伝来の土地にたまたま住み続けていたか(多分津波は大丈夫だろうけど、多少分家も進んでいる)、土地が安くて工場までの便が悪くなかったから住んでいる(多分津波やばい)という人達ぐらいなのだ。
コンパクトシティの集まる側、駅チカについては昔から政策がないわけじゃない。今僕が担当しているような区画整理でJRの駅前なんかは都市の許容力を多少上げてきた。再開発なんかもすでにやってるとこもある。しかしながら農村についてはほぼそういう政策はないのだよな。僕が今担当しているのは海側の区画整理なんだけれども、当時の自治体がある意味強引に推進し、そして事業の中身としては厳しい(正直駅とか東名ICとかがないと厳しい事業だよ区画整理)という状況になっている。農村が農村の中で、農村の機能を集約するパッケージはない。正直住むなってことだよな。
政策が街を作ることの不安と言えば、区画整理が行われた街を見るにつけ、行政や行政に近いものが考えた街並みが本当に正解なのかな、という想いもある。例えば碁盤の目のように整備すれば十字路ができるが、全ての十字路に信号がつくわけでもないし止まれの表示すらつくわけじゃない。そういうものが連続する道路とかでどう安全を保つかとか真っ直ぐな道の隠れられなさというか通過交通のスピードが上がることとか荷降ろしのこと考えてあるのかとか駐車スペースとかモロモロ。
難しいなあ。と月並みに嘆いてみる。
私は実行部隊というかただの事務処理人なんだけど、政策の雰囲気を嗅いだりしていてもほとんど呻くぐらいなのだよ。
東京栄えてそれでいいというわけではないのが、田舎と都会を持っている静岡県の実感で、田舎住民が都会に集まって行く時、それはほぼ先細りというか都市の奥行きを削いでいくだけ(静岡県は人口減少が始まっているが、日本としても始まっているということ)なので、田舎の非効率を嗤うのはいいのだけれども田舎の解決もまた考えるべきというか昔の漁師が山に木を植えていたように田舎の何かを考えていくのが東京や都市のためでもあるような気はしているのだよね。

イクメンで、ないのもつらい。

いい枕が見つからない。とにもかくにもイクメンというものは良くも悪くも定着したり世間を騒がせたりした。イクメンの定義は仕事と育児を両立するものっつーと仕事がなければイクメンじゃないのかとか、そもそも裏に隠れた「イケメン」っつーのがここに来てイタい。カッコよくなきゃいかんのか。夫婦喧嘩は犬も食わんと言うじゃないか。あ、喧嘩の話はしてないっすか?
イクメンで、ないのもつらい。
私事ですが、育児休業を半年ちょっと取った後で割と残業多めの部署に回って色々できなくなったあと、そもそも子を独り占めし過ぎだったんじゃ、という家庭内バックラッシュ的なものもあり、完全に非イクメンに後退したところ、子が懐きません。
一人目の子は半年以上僕がメインで見ていたこともあり、そんなではないのですが、2人目の子は生まれた時から残業有りなので正直懐かない。懐くってのが適当かわかりませんが、2歳にして「お父さん嫌」「あっち行って」「見ないで」等、慣れたんでアレですが、文脈を無視すればなかなか厳しい言葉を浴びせてくれます。買い物等の時も、僕が抱っこできればいいのですが、「お父さん嫌」なので、妻が抱っこせざるを得ない時がほとんどです。
育児をメインにしていた時があるので比べると思うのですが、育児をしていると楽になる側面が、男性にだってある。簡単に育児休業を取れた僕が、簡単には深夜残業をやめられなかったっつーのが男性だからなのかはわからないけれども、結局はモロモロによって非イクメンに揺り戻されることもある。そしてそんな非イクメンは楽ではない。家事や育児に食い込もうにも食い込めない現状がある。本人の努力が足りないのは批判されるべきではあるが、育児がメインではなくなった時の、育児の入りにくさ。まず、育児される本人が拒むのです。2歳児なのだけれどもまだミルクを飲んでいるので、夜中にミルクを作るとかは僕が主にやっています。そういう作業は僕でもできる。でも、当の本人からは拒まれること、多いのよね〜。子にとって「お母さんがいい〜!」っつーことを「お父さんは嫌!」っつー時に僕ができると僕は楽になるのだけれどね。
で、イクメンで、ないのもつらい、っつーわけですが。
そもそもそんなことは枝葉のことでね。ほんとの問題とか危機とかっつーのは前エントリーにも書いたようなことで、主に精神の尊厳とか人間関係とかそういうことであります。そしてお金もまた重要な問題だと僕は思っていて、仕事であるとか同居している家族関係とか、全てのことに一生懸命生きるということが、一番大事なことなのかなあと僕は思っておりまして、2歳児に殴られ蹴られ嫌がられつつベタベタしに行っているというところでございます。
イクメンとかどこにいるんだ。

私たちはスペックと結婚する

昔3高、今3低。カー付き、家付き、ババー抜き。私たちは結婚相手にスペックを求めます。結果、自分の選んだまたは妥協したスペックと結婚することにはなりますが、私たちが一緒に暮らすのは、生身の人間です。
さて、私は何かしらのスペックを持って結婚したのだとは思いますが、何の因果かマスオさんになりましたので、スペクトラムに色々な人と関わり暮らすことになりました。運悪く長男なので、妻には長男の嫁という立場を結果的に強いることともなりました。結果ですね、すげートラブル多い。すげートラブル多い。
詳細については僕や誰かを傷つけるので書きませんが、育ってきた環境が違うからぁぁあんのすれ違いは否めないんですよね。そういえば山崎まさよしは長男について歌っていますが、私にはセロリよりもそっちがストライクです。
夫婦喧嘩なのか何なのか、コンフリクトとかいたたまれない状態、許しの得られない状態など、罪・咎・憂いの全部乗せ状態アーメン。お互いが覆水盆に返らないことはいくらでもあります。言っちゃいけないことは、気軽に言ってしまいました。心に抱えていることも、ケロッと忘れたこともあります。
それで?
それでっちゃあそれで、なお話なんです。お互いに相手に対しても自分に対しても、変えようと思って変えられなかったことが山ほどありますし、ほとんど100%に近い。ただ、ぶつかる中で、慣れちゃったり、少しでも気をつけたりとか、そういうことで将来へのぼんやりとした展望にしている。
相手は変えられない。自分は変えられる。ただこれも一筋縄ではいかない。どっちもしんどい。結局のところ、新しい「2人」というものを作っていくしかないところもある。
生身の人間は、正直取り返しがつかない。過つ。楽をする。取り繕う。甘やかす。過剰・不足がある。常識がない。ただの混沌だ。そんな中で私たちができることは積極的に混乱することなのではないかと思う。僕は、とりあえずそんな感じだ。
(あ、お題に沿っていない)

トーキョーシティー

田舎と都会に引っかかりまくっている。
先日「東京」と冠している千葉のアミューズメントパークへ行ってきたのですが、11月の土曜日ということで宿泊が浦安近郊では全く取れず、同じく千葉県の鎌ヶ谷市のホテルを利用した。そこから浦安の某施設まで車で1時間程度というロケーション。ホテルの真横にイオンショッピングセンターがあり、田舎者一同はテンションが上がりました。もはやイオンがあることが安心であり、娘などはネズミかイオンかぐらいにイオンのことも好きであります。
さて、鎌ヶ谷市までは車で行ったのですが、カーナビでは4時間かからない所要時間で出たのですが、まあ子連れの旅でもあり、首都圏を通過しますので、実際にその時間では着かない。それはそれとして、それなりに千葉県まで車で行くことはできました。カーナビが分岐を案内し、ETCが決済してくれる。途中のPAでは快適なトイレ休憩が過ごせます。絨毯の上にいるような。
鎌ヶ谷市のホテルに泊まり、1時間かけて夢の国へ車で向かいまして、道すがらナビにはららぽーとトーキョーベイとイケア船橋が表示されます。横浜のイケアにいつか行きたいねと話していた私たち夫婦に取ってまさか目の前にイケアというものが存在しているとは!とは思いつつまずは某夢の国へはカーナビが案内してくれまして、入って夜の電飾行進まで時間を過ごし、帰りはまた鎌ヶ谷市のホテルへ。計2泊して翌朝からゆるゆると帰宅していくのですが、家の近くにもららぽーとがある静岡県の人間ですので、関東のららぽーとはどんなもんじゃろな冷やかしてやろかいなとららぽーとトーキョーベイへ寄ってみたらたまげたまじ広ぇー。スマホで調べたら日本第三位のショッピングモールでららぽーとの中では最大だと言うじゃないか。地元のららぽーとが3つは入るわあと思いつつ、まあ個人的にららぽーとは珍しくないので、人生初イケアへ。
歩いて行ける距離だそうだが、子連れだし買い物すれば荷物が出るだろうから車でイケアへ。またしても巨大な建物と中へ入れば広大な無料駐車場。これは田舎者フレンドリーな施設だ。人生初イケアではもはや2度は来れんぞとばかりに小物をしこたま購入した。
東京、と言えば高速道路で通過しただけだが、正直投資不足というか、首都高がすげーボトルネックだとか狭いとか古いとか複雑とか感じました。田舎者フレンドリーさがない。皇居を横目に見つつ、渋谷を突っ切ったり、遠くスカイツリーを眺めたりしたのだけれど、東京の24区内に来ることはないのかあと思ったりした。車では行けないから(行けるのだろうけど、知識のなさと車の駐め方がわからないのと、目的地のなさと)。
今回たまたま千葉のアミューズメントパーク(いい加減めんどくさいから書くけど以下東京ディズニーランド)とららぽーとトーキョーベイとイケア船橋へ行きましたが、これがららぽーと柏の葉でもイオンレイクタウンでもことは同じ。カーナビに場所を打ち込めば容易に行けると思う。ところが東京24区内には行くことができない。これが田舎と都会の差なのだろうと思う。
例えば御殿場アウトレットだとか、土岐プレミアムアウトレットだとか、名前さえ知っていればカーナビが連れて行ってくれる。東京ディズニーランドでも蒲郡のなんだっけとかどこでも行けるわけじゃん。ところが東京は…僕の認識不足だろうけど、ソラマチとか六本木ヒルズとか渋谷ヒカリエとかどうやって行ったらいいかもわからないし、多分そのへんは田舎ってことになるのだと思うというか多分田舎者がずらずらいるのだろう。東京には行くことができない、というのが僕が関東を旅して思ったことであり、東京の人は地方へ行くことができるから、地方にはイオンモール的な金太郎飴化して欲しくないのだろうなあと思った。
田舎者は都会に行くことができないが、都会人は田舎に行くことができる。だから田舎にはイオンモールが必要なんだと僕は思っているよ。あとイオンモールららぽーとはやっぱりこの場合イコールでいいのかな。もはやデパートとか百貨店というものが何なのか僕には思い出せなくなってきた。

幼稚園児パパとはどんな人たちなのか

先日幼稚園の遠足に行ってきましてん。里山だかビオトープだか言うところまで道路を歩くというものでしたが、幼稚園のイベントには「父親参加」を指定するものがよくあり、今回もそういうものでした。てなわけで自然と幼稚園児父がわんさか集まったという次第。9割が父親という中で、自分の子と同じクラスの父親はもうそろそろ顔と名前が一致するぐらいにはなっていますので、色々なところで父親も幼稚園に参加しているということ。
幼稚園児と父親が列を成して整然、とまでは言えない迄も、とにかく歩く。朝8時45分出発で10時15分里山着。その後里山で遊んだあと、12時に昼食。という流れ。そういう中で男親がほとんどの中である程度の秩序を保って進んでいくというのがなかなか初めての体験だったなあ、と。
昼食時には何となく子の友人関係に応じて、まあ親同士も見知った感じだけれどもゴザ(じゃないなマットっていうか敷物)引いて弁当広げて皆で食べて、と。周りはおっさんなんだけど、何にもイレギュラーなことが起こっていない。イクメンなんて全然いない(僕も含めて、だな)のに、普通に進んでいくのが不思議な感じでした。
思うに。
ある程度父親というものには役割などがあって、各家庭で存在しているものなんだな、と。
子育てからのディスられっぷりからして、父親ってものは存在していないかと思っていましたが。
過大評価するものではないけれども、決して過小評価するものでもない。「ステレオタイプな父親」ってものも、家庭内で一定の役割を果たしているのだろうなあというかそういうことを思っていたわけではありませんが、そんな感じです。